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ノスタルジーと不忍池 森鷗外『雁』 【読書感想文】

 『雁』は1911年から13年にかけて雑誌『スバル』に連載された小説です。鷗外の現代小説の中では『青年』と並んで分量が多く、新潮文庫にも入っているので、知名度も高いですよね。
 私も、前に読んだ覚えはないのですが、上野の不忍池を眺めながら、「色んな鳥がいるけど、どれが雁なんだろう?」と考えたりしていたので、「不忍池の雁が出てくる悲恋物語」程度の知識はあったのかな(さっきWikipediaで調べたところ、雁とはカモより大きく白鳥より小さい水鳥の総称とありました)。

 不忍池といえば、この小説によると、一時池の外周が競馬場になっていたようです。天皇も観覧されたというので、アスコット競馬場のような上流階級が集う場にするつもりだったのでしょうか。
 『雁』にはそれ以外にも、上野の仲町通りに今もある宝丹という薬屋や岩崎邸、無縁坂(東天紅の奥の坂)など不忍池周辺の場所の名前が登場するので、上野・湯島のご当地小説としても読むことができます。

 ご当地小説というぐらいですから、『雁』は鷗外の小説としては、最も気楽に読める作品ではないかと思います。
 『沈黙の塔』の感想に、大逆事件によって公人としての自分と作家としての自分に引き裂かれた鷗外が今後、どのようになるのか? と書いたのですが、この作品では、作中の年代を過去(明治十三年、鷗外の学生時代)に設定し、若い娘を取り巻く人々の人間模様を描くことで、現実の社会と距離を置いています。

 このやり方を一歩進めたのが、歴史小説ということになるのかもしれません。春に講演を聞いた日本文学の先生は、鷗外は歴史小説に逃避したのだとおっしゃっていました。
 確かにそういう見方もできるのかもしれませんが、芸術家にとっては、作品を生み出すのが何より大事なんだろうなとも思うのです。現実に抗議して筆を折ったり、発禁を何度も喰らって埋もれてしまうのがとるべき道なのか? と考えてしまいます。
 今年が鷗外没後百年ということで、有名な方々が、どの鷗外作品が好きかを様々な媒体で語っています。それを見ると、みなさん、歴史小説を選ばれているんですよね。
 現実から逃げたことで、芸術的に高みに到達できたことをどう捉えればいいのでしょう。
 表現の自由は絶対に守らなければならない価値観ですが、一人の芸術家に目を向けると、現実とのせめぎ合いの中で素晴らしいものが生み出されることもあるのだよなぁと感じてしまいます。

 話を戻すと、『雁』は、歴史小説ではないですが、語り手の青年時代の話ということで、ノスタルジーがほのかに漂う、他の鷗外作品とは雰囲気がかなり違う作品になっています。純真だったお玉が辛い境遇になっても、心は汚さずに自分なりに幸せを見つけようとする様を描写する語り手の優しさ。といって、歴史小説に出てくる娘たちのように理想化されているわけではなく、お玉なりに現実と馴れ合う様も描かれています。

 お玉を妾にする末造も嫌な男のはずなのに、お玉の父親にまで気を遣ったり、気持ちの上でもお玉を大事にしたりする様が微笑ましく、憎む気になれません。だからといって、お玉が末造を好きになるわけではなく、最初の頃の心のこもったもてなしがだんだん形だけになっていくのを切れ者であるはずの末造が気付かないのも、ちょっと可笑しい。

 末造の妻が夫に女がいると気付くエピソードなども、現代の不倫に置き換えても通用しそうな話でした。語り手は、お玉に優しさを注ぎながらも、末造の妻の怒りや悲しみを丁寧に描いています。戦前の社会では成功した男性が妾を持つのは普通のことだったようですが、だからといって、妻たちがそれを良しとしていたわけではなく、妻たちの犠牲の上に成り立っていた社会なのだとわかりました(私の年でも、さすがに浮気は男の甲斐性などという価値観が許されていた時代は知らないので、そうした時代の女性たちがどんな気持ちでいたのか、想像もつかないのです)。

 また、何となく「妾の女性と学生の悲恋話」と思い込んでいた割には、学生の印象は薄かったです。彼もいつも見かけるお玉に憧れてはいたのですが、不運が重なって、結ばれずに終わり……ただ、たとえ結ばれていても、彼にとってはひと時のことでしかなかったのだろうと思わせる話でした。それだけに、その恋に自分の気持ちの全てを注ぎ込んでいたお玉が哀れで仕方ありません。1950年代と1960年代にこの小説を原作にした映画が撮られているのは、その時代には、待つことしかできない女性、運命に翻弄される女性がまだまだリアルに感じられたからなのでしょうね。

 鷗外の他の作品とはまた違う面から、明治という時代を偲ばせる物語でした。



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