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【読書エッセイ】 近くて遠い作家だった村上春樹さん 後篇


 今思えば、『ノルウェイの森』を読んだ時に、村上春樹さんの小説にはまってもおかしくなかった。
 主人公と同い年&同じ場所にいる時に、その小説を読むという滅多にない読書体験ができたのだから。 

 それに、『ノルウェイの森』には、当時私が好きだったものが散りばめられていた。好きなアーティストというよりは恩人or導師に近いビートルズの曲、ドアーズ、ボギー、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』…。作中に出てくる=作者が愛好しているというわけではないにしても、登場人物との距離は縮まる。

 作中に出てくる女性達も良かった。前にも書いたが、小説内の男性描写の方は「なるほど、そんなものか」とあっさり受け入れるくせに、女性の描写に不自然な点があると、その作家への評価が下がってしまう。でも、『ノルウェイの森』に出てくる女性三人ーー直子、レイコ、緑は、かなりリアルに思えた。

 まあ、直子は好きになれなかったけど。同性で直子を好きになれるのは、彼女を自分と重ねることができる人だけだと思う(違ったら、ごめんなさい)。

 でも、後の二人、レイコと緑はーー特に緑は、私の周りにいた東京近郊出身の子達によく似ていた。たくましいのに、軽やか。気負いなく、楽しげで。不器用で垢抜けない私は(何しろ、あだ名が平助だ)、彼女達を憧れの目で見ていたものだ。現実の世界では、彼女達はワタナベのような男子とは結ばれそうになかったが、その程度は文学的誇張の範囲内だろう。

 多分、好きな点なら、村上龍さんの『コインロッカー・ベイビーズ』よりも『ノルウェイの森』の方が多かったと思う。
 なのに、村上龍さんの場合とは違い、村上春樹さんの作品をもっと読んでみようとはならなかった。それどころか、二度とこの作家の作品は読まないだろうなと思ってしまった。

 そう思った理由の一つは、あの作品を覆うセンチメンタリズムについていけなかったからだ。ポップミュージックや中〜短編小説なら、情感あふれる作品も悪くない。サイモン&ガーファンクルのバラード曲を集めたプレイリストをよく聴くし、フィッジェラルドの小説もかなり感傷的なのに、特に気にならなかった。でも、私のセンチメンタリズム許容量に比して、『ノルウェイの森』は長すぎた。
 今なら、自分がひどい誤読をしていたとわかる。『ノルウェイの森』は、回想と追憶の物語だ。情感豊かに書かれるのは当然なのだ。私自身、特に何があったわけでもないのに、自分の若い頃を感傷的に思い出す。でも、大学生の私には、大人の気持ちがわからなかった。青春時代を回顧することの意味がわかっていなかった。

 もう一つの理由は、『ノルウェイの森』の重要なテーマである「喪失」が、自分に縁のないものだったからだ。当時の私が幸せだったとか満ち足りていたというわけではなく、そもそも何も得ていなかったので、何かを失うこともなく、何かを失うことの痛みもわかっていなかった。
 (先日、マーベルドラマの《ワンダヴィジョン》を観ていたら、「僕には、君の感じている喪失感がわからない。何も持っていないから」とヴィジョンが語っていた。しかし、ヴィジョンは、双子の兄を失ったワンダの喪失感を理解し、彼女と心を通わせていく。若い頃の自分は、アンドロイドよりも共感力がなかったのかと感じたエピソードだった)。

 私は乱読派の活字中毒なので、一冊読んで縁がなくなる作家は少なくない。でも、縁がなければ、本の中身も、時には作家の名前さえ忘れてしまうのに、村上春樹さんだけは、なぜか常に気になる作家であり続けた。


 大学四年の時、英語の授業が「現代アメリカのミニマリズム短編を村上春樹風に翻訳する」というものだった(四年になっても、語学がある学部なのだ)。今思えば、講師がハルキストだったのだろう。非常に面白い授業だったし、『ノルウェイの森』の印象が焼き付いていたので、それらしく訳すこともできた。教師に褒めてもらったのもよく覚えている。というのも、大学時代に褒められたのは、それ一度きりだったから(当時既に村上さんはレイモンド・カーヴァーの短編集を翻訳なさっていたのだが、そんなこととは知らず。私達が読んだのは、カーヴァーの後継者達の短編だと思う)。

 それから、本質には全く関係ない話だが、とある小さなコンサートで村上さんを目撃したこともある(友達が気付いた)。マイナーなアーティストのコンサートに行くと、「同好の士がこんなにもいるんだ」と嬉しくなって、柄にもなく人類愛が昂まる。村上さんにも、親愛の情を抱かずにはいられなかった。

 更に、あまりにお金と時間を喰うのでやめてしまったけど、サッカー観戦が趣味だった頃、応援していた選手の一人、マンUのマタ選手が村上さんのファンだと知った。マタ選手もすごいけど、半分ぐらいの歳のスペイン人に愛される村上さんもすごい作家だなぁと感じた。
 逆を考えてみれば、日本人の私は、スペイン文学なんて、『ドン・キホーテ』しか読んだことがないのに。


 そして、極め付きはこれ。いつだったか、ひどく蒸し暑い日に、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を読んでいた。フォークナーは大好きな作家なのだが、理解できていない部分も多いし、特に『アブサロム、アブサロム!』は長く続けて読めない。比喩ではなく、脳がショートしてしまいそうになるのだ。ところが、その日はなぜかサクサク読めて、理解も進んだ。蒸し暑くて、思考の幅が狭まっているのに。もしかして、それがかえっていいのだろうかと気付いた。頭がうまく回らない時には、フォークナーを読め。これは、P.K.ディックの小説にも言えることだとも感じた。

 先日書いた『三四郎』=《(500)日のサマー》もそうだが、物事に変なつながりを見つけたら、同じ意見がないかネットで調べることにしている。なければ、忘れる。存在しないつながりをあると思い込むのは危険だ。
 しかし、『三四郎』の時はそこそこ読まれている本&公開中の映画だったので、同じ意見を見つけることができたが、フォークナー&ディックは。翻訳者の方のエッセイによると、日本のフォークナー読者は多くても数千人。ディックファンはもっと多いと思うが、私の知る限り、SFファンには求道者が多く、SFのためならチェコ語も学ぶが、他分野の小説にはあまり手を出さない(私自身は、SFファンではなく、ただのフィリップ・ディック好き。ちなみに、最も有名な『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、脳がショートするタイプの話ではない)。同じ意見の人がいればいいけど、どうかな…と思いながら「フォークナー pkディック 頭がぼんやり」と入れて検索すると、似た意見を書いている人がいた。現実の人ではなく、村上さんの小説の登場人物だった。

フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

 フォークナーとディックを並べる感覚を共有できる人がいるのだと思うと(たとえ、架空の人物でも)、何だかとても嬉しくなった。
 あの時、どうして村上さんの小説を読んでみようと思わなかったのか、今思うと不思議だ。
 すべてのものには、それに適した時と場所があるということなのだろうか。

突然、村上さんの小説を読む気になった経緯はこれ。


 長々と自分語りをして申し訳ありません。村上さんの小説には、それにかこつけて自分を語りたくなる魔力がある気がします。
 ということで、森鷗外や夏目漱石について書く合間に、村上さんの小説をもとにした読書エッセイを書いていきたいと考えています。 
 
 




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