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「生きたい」は「安心感」から

こころを整えるため

先日逃げるために休学し、関東に移動したと書いた。

その言葉に嘘偽りはない。
でも、言葉を変えてよいのなら「こころを整えるため」。
この言葉をあてたい。

結果は、「整いました」そう言える。

「整う」まで3年近くを要した。
長い時間をかけたものだと苦笑いしてしまう。

それだけの時間をかけたけれど、結局「整いた」のはこの1年もいかない期間の間のこと。
関東に引っ越している期間で「整いた」。 

「こころを整える」ために必要だったこと。
それを、この短い期間で学べた。


「安心感」は生きる希望

不安が常に付き纏っていた。
留年に加えて、休学の選択。

この先お金を稼ぎ、自立した生活を送ることが出来るのだろうか。
こんな状態で生きてる意味はあるのか。
死んだ方が世の中のためなんじゃないか。


休学を決めてから
いや、そもそも留年が決まった時点でそんな不安がいつも頭を支配していた。
休学は自分で決めたこととは言え、それが余計に不安を煽った。

そんな不安に兆しが見え始めたのは6月半ば。
今のバイト先で働き始めたことがキッカケ。

家族のような暖かさ」「安心感」がそこにあった。

何気ない会話をした、悩みや面白かったこと。
少しでも上達すると褒めてもらえた。
間違ったことには対して適切に怒ってくれた。
自分がいることで仕事が回ってると言ってもらえた。

その「安心感」が生きる希望を与えてくれたと思う。

「まだ、生きていていい。ここに居てもいい。」

そう言ってもらえている気がした。

そこから、講演イベントや交流会へ俄然足を運ぶようになった。
そこでたくさんの人と僕は出会えた。
色々な背景を持った、それぞれ違った生き方をしている人たちに。

「就職」という選択肢を選ばなかったとしても生きてはいけるんじゃないか。
「就職」だけが生きる手段ではないんじゃないか。

そんな考えが生まれた。
「たとえ世間一般の思う『普通』でなくても、生きる事はできる。」 

順当に、世間が考えるような「道」を進まなければ未来がない。
そう思っていた自分に対して、
どんな生き方でも生きてはいける、恥じることはない。と思わせる
安心感」をこの考え方は与えてくれた。

「安心感」はどこかに転がっている

みじかな場所かもしれないし、遠い場所かもしれない。
それが家族なのか友人なのか、はたまた仕事先になのか。それとも別の地域にあるのか、異国にあるのか。

どこに「安心感」が転がっているかわからないけれど、どこかには転がっていると思う。

鬱っぽさ真っ盛りだった2年間。僕の周りに「安心感」があるようには感じれなかった。
けれど、場所を変え、会う人が変わり見つかった。

その場所から改めて元いた場所を眺めると、その時見つけることのできなかった「安心感」を見つけることができた。
当時見つけることができなかっただけで、確かにそこに「安心感」はあったようだった。

今、立っている、住んでいる場所からでは見えなくても、少し立ち位置や、住む場所、会う人を変えれば見えてくるものがある。
「安心感」もそういう見方一つで見つけれるものだと、住む場所を変えた僕は思う。

「安心感」があれば、少なくと「生きる」ためだけに何かできるようになると思う。別に無理やり自分に価値なんてつけなくてもいい。
「生きる」だけでも十分に立派だと思うから。

だから、今「安心感」を感じれないなら、一歩どこかに踏み出してみてほしい。

「どこに踏み出していいかわからない。」

そう思う人もいるかもしれない。
そんな人へ、あくまで僕個人が暖かいと感じた場所やイベントを載せておこうと思う。参考になれば幸いだ。


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