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呪いは願いへ

「疲れているなぁ。」

ここ数日、色々な変化が起こっている。他人が起こしたものではないその波に、飲み込まれないよう喘ぎながら生きてる。
苦しいような、充実しているような日々。その中で疑問が浮かぶ。こうも波を起こすのはなぜだろうか。牧歌的な生き方、波を起こさない生き方をしたって別に問題なんて何もないのに、と。

けれど、その生き方は許容できない。その生き方は私に生きる実感を与えてはくれない。その生き方は、私にとって死んでいると変わりがない。
生きたいから、あえて変化を起こしては溺れかけ、波をかき分けて生還していく生き方を望むんだ。

"それは呪いだよ"

そんな声が聞こえてくる。
理由がないと生きていけない。
確かに、呪いと言われても違いはないような生き方、それでも私にとってこれは願いなんだ。
-この人生を生き切りたい-
その願いをかなえるための、願いなんだ。


始まりは呪いだった。
失ったものに払える対価がなく、辛くても苦しくても死にたくても死ねない。どんなことがあろうとも生き続ける、それを対価として払った昔。

-生きることが贖罪だ-
その意志を信じ、自分自身で自分をたくさん傷つけてきた。言葉で、暴力で。贖罪だから、対価だから、傷ついて当たり前。傷つきながら生きていく以外選択なんてない。そう思っていた。

「どうやったら楽になれるだろうか。」

それが口癖だった。口にだしたことはなかったけれど、頭の中はいつもそればかりだった。

あの頃、間違いなく生きることは呪いだった。


「生きていくのがつらい。」

呪いが願いに変わったきっかけはそれを伝えたことだった。
それを聞いた子は

「そっかぁ」

そう呟いただけ。それだけのことが、それだけだったから、私は嬉しかった、泣いてしまうほど。

-生きなければいけない-

-生きていきたい-
へと、あの瞬間に変わった。

それは、きっと、なんの価値も求められない、ただの肯定だったから。
初めて、受け入れてもらえた。
そんな気がしたから。

だから....

それからたくさんの人にあった。本当にたくさん。
彼ら、彼女らから色んな生き方を学んだ。知ることができた。

・私より行動している人
・世界を変えようとしている人
・苦しみから救われた人
・日常こそが幸せと呼ぶ人
・苦しみの中で生きる人

ここには書きれないほど、色々な背景の人に出会えた。
そして、人に会えば会うほど生きていきたいと思えた。

けれど、難儀なのが牧歌的な生活では私の生きる気力は失せてしまうことだ。
一日一日を精力的に活動していかなければ生きていけない、まるでマグロみたいな人間性だ。

そんなマグロみたいな人間が、「生きたい」という願いを叶えようとした結果、自分で起こした波の中を必死にもがく生き方になってしまった。

我ながら、生きるのが下手くそで笑ってしまう。

今の生き方は、確かに疲れる。もうめんどくさいと思うこともかなり多い、思わないことがない日なんてないくらいだ。

けれど、
「疲れたなぁ」はきっと、
「今日も生きたなぁ」ってことだから。

明日もきっと喘ぎながら、もがきながら生きるんだろう。
私の願いを、叶えるために。


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