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紅筆伝 1-11

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第一章 一話へ  『黴男』はこちら

 
    十一
 
 「タチバナの知り合いだった。蒲田が来る前に、どうにかして黴をはがしてやってくれ、と言う電話が、彼女からきた。僕は、家の書庫にある古い本に書いてあった通りの方法で、黴を落とした」
 「へえ、黴って落とせるんですか」邪植は意外そうな声を上げる。
 「うん、まあ、全部では無かったがね。それも蒲田には話したさ。ゆっくり少しずつ、消し去ることはできないが、広がりを抑えることはできる、とね。しかし、彼はそれじゃ納得できなかったんだろうな」
 いつの間にか、そばに引き寄せていた煙草盆から、一本煙草を取り出すと、それに火をつけて、深く吸い込んだ。
 「彼は、ある時から、家に来なくなった。その後、どうなったのか、消息は不明だったが、……」そうつぶやいて、煙を吐き出す。「どうやら、はっきりしたようだね」
 白い紫煙の先で、タチバナの双眸が、微かにゆれた。しかし、また何でもないものでも見るように、薄暗いくもりを持って、僕を見つめ返し、微笑んだ。
 「まるで、わたしがそうなるように仕向けたような言い方をするじゃないか」
 「別に。そうは言っていない。だが、お前は」何でもないことのようにつぶやいた。「人の命など、どうなっても良いんだろう」
 そう言って顔を上げると、タチバナは悲しむでもなく、怒るでもなく、まるで天気の話でもするように、僕の話の跡継ぎをするように、続けた。
 「まあ、そうだね。蒲田の消息は、知ってはいたよ。だけど、興味は無かった。彼は、黴となって消える前、わたしと少し話をしたよ」
 さら、と、彼女の髪の毛が微かな風に揺れた。開け放している、縁側から、夜風がゆるやかに吹いている。
 「そこで、なぜ助けない?」八枯れは髭をひくつかせながら、低くつぶやいた。
 心底、厄介なものを見るような目で、タチバナを眺めている。おそらく、尻ぬぐいをさせられるのが、目に見えているからだろう。
 タチバナは肩をすくめて、「さあね、わたしには関係無いからさ」と、だけ言い放った。相変わらずの無責任さである。
 こうなるから、こいつと関わるのは金輪際、ごめんだったんだ。そう言いかけて、止めた。見下ろすと、真子の小さな頭が左右にゆれていた。足をばたつかせながら、僕たちの話を楽しそうに聞いている。
 不思議な子である。大人の会話をどう受け止めているのだろうか。責任逃れをし、あるいは人の命さえも紙きれのように扱うタチバナを、「みかんちゃん」などと、呼んで、親しんでいる。この子にとって、世界はどう見えているのだろうか。
 「お父さん」すると、真子は突然、僕の方を見上げて、名案が浮かんだかのように、はっきりと言った。
 「真子と八枯れが、黴の蒲田さんを助けに行くよ」


   十二へ続く

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