私的文学観(2012年初出)
私的文学観
本がつねに慰めとなる人が減った現代は、ある意味非常に健康的なのだろう。
しかし、それを知人に話せば「それは違う。本を読んでいなくとも、何か抱えているよきっと」と、言う。何かを抱えているか、いないか、というのが問題なのではない。ここで言っているのは、その何かは本(論理化)によって慰められる人が減った、という意味だ。
ちなみに、わたしのこのような愚痴には、根拠もある。
インチキ漱石論を書いている(わたしもそのうちの一人だが)教師の授業には、本に慰められる必要もない、健康な人間が多いのだ。
当然インチキ漱石論の教師も、概ねそのような枠組みの中につっこんで、考えている。そうなると、本を読むことがイコールで、不健康という訳ではなさそうである。もちろん、健康的であることを批判している訳ではない。健康的な人間は健康的に生きれば良いだけで、文学をごちゃごちゃいじる必要など無いじゃないか、ということだ。漱石に慰められることのない者、あるいは好きでもない者が、漱石を読む必要はなく、ただ静かに退場願いたいだけだ。
授業を実際に聞いてみればわかることだが、おそらく漱石も、漱石を論じた江藤も、阿鼻叫喚するにちがいない。それほど「文学」というものが何かわかっていない学生、はたまたインチキ文学者が、漱石をテクストにしているのだから、おかしな話である。
中身のない記号遊びをしながら、自らの知識を疑わず、他者を見下すことしか知らない高慢な学生。彼らは、英語が人より使えるというだけで、ずいぶん得意そうだが、漱石を読むことができない不幸な人である。彼らには、外界との違和感など存在していない。ある意味幸福な精神の持ち主であり、そのような健康者はそもそも「文学」をやる必要がない。
なぜなら、彼らはある種の「孤独」を知らないからだ。漱石は孤独な人だったそうだが、江藤も相当孤独な人だったのだろう。彼は小学生のころに実母を亡くし、外界との連絡通路を失っている。ゆえに、生の現実が彼を襲ったとしても、誰も守ってはくれないのだ。その時々において、彼は現実を論理化することによってしか、生きてはいけなかった。「彼らの多くには母親がおり、その魯鈍さにもかかわらず世界に受け入れられている」という言葉は切実なものであった。そのような世界に対する嫌悪感を抱きながらも、それを人には理解されない孤独を持っていた。このような心境は、一種の精神の病に過ぎず、江藤はそれを「わたしは肉体だけではない、精神の危機に陥っていた」と、言う。
わたしはこの部分に大いなる共感を抱くと同時に、江藤が嫌悪する自己の「病」を目の当たりにする。江藤は、ここでこんなことを書いてはいるが、おそらく世界に受け入れられない自己を否定していたに違いなく、さらに言うなら、「魯鈍」であっても、世界に受け入れられている他者を、うらやましく思っていたのではないだろうか。しかし、そうは思っても、普通はここまではっきりと、幸福な他者への嫌悪など書けない。書いたあとの自分の惨めさを思うと、やはりわたしもそれを書けなかっただろう。しかし、書かなければ自己の危機は免れず、書いてしまうからこそ、「文学者」なのである。
インチキ教師や、高慢な学生でさえも世界に受け入れられている。漱石をいかに辱めようとも、それを批判する者はこの教室の中にはいない。わたしがやらなければ、少なくともこの教室においては、漱石も江藤も虐殺されてしまう。その自己への圧迫は、乾いた瘡蓋がはがれる時のように、つねにわたしを追いつめていた。しかし、その部分がヒリヒリと痛むたびに、江藤の冷笑するような文章が頭をよぎり、そっとわたしのそばに寄り添っていてくれた。
そのような部分に文学の生きる道がある。知識は格好をつけるための道具ではなく、他者を見下すためのものではない。しかし、彼らは自己の凡庸さから逃れようと、そのような差異化を行い、自己を守ることしか知らない。自らのインチキ性も、幼稚さも自覚することなく、ただ先人の「孤独」を嘲笑い、虐殺し続ける。それが、知の自立であってはならない。わたしはそれを最も憎み、嫌う。それをインチキと呼ばず、何をインチキと呼べばいいのか。馬鹿馬鹿しい現実である。
しかし、そこで反論しないのは、「文学は沈黙の音楽でなければならない」と、いう江藤の文学観を、守っていたいからだ。知識を道具化し、アクセサリーのように見せびらかす連中を、相手どって戦うことの不毛さは、すでに六十年から先の論戦において見てきた。しかし、江藤らを知らない今後の文学云々の空間には、このような虐殺者が絶えず現われてくる。もはや、わたしのような者のほうがマイノリティーであり、絶滅寸前の生物であるに違いない。それでも、ある意味安心感を持って、もはや化石となった議論のただよう空間に座っていられたのは、先人が戦い、「文学とは何か」を、徹底的に論理化し、書き残してくれていたからである。そのような態度からは、学ぶべきものしかなく、ある場面においてはわたしのような弱者を守ってくれる。しかし、真似ることによって表象し、残してゆこうとするのは、どうも知識を道具化する連中と「同じ穴の狢」になるので、やりたくないのだった。
ここには、一種の矛盾が存在している。しかし、自己を守るために語りだした論理が、「文学」となり、自己を肯定してゆくものである限りは、わたしもその恩恵にあやかっていたいのである。あやかったうえで、返還するという行為におよぶとき、おそらくインチキ連中をやりまかすことではないはずだ。いま、「文学」を必要としているのは、「現実」のほうであり、その現実と文学との関係性を、いかに無理なく緩和させることができるのか。そこに、現在の「文学」のはじまりがある。
(2012年初出)
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