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黴男 1-2

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    二

 古本屋街を抜けて、右に曲がると細い道に入る。そこをずっと進むと、青い屋根の古ぼけた建物が見えてくる。ステンドグラスのはめこまれた扉には、「閉店」の札がかけられている。「筆の森」は、変わった店主が営む、やる気のない古本屋である。大学生の頃から、贔屓にしていた店であり、店主ともやけに気があって、いまじゃそれなりにつきあいのある友人だ。今回、僕の頭にカビが生えると言ったのも、彼女タチバナである。
 「おい、変なものを店に持ち込まないでくれないか」
 扉を引いて早々、険のある声でそんなことを言われた。やはり、彼女ははじめから、こちらの事情を知っている。ムッとしながら扉を閉めると、薄暗い店内に、高い鈴の音が鳴り響いた。
 変なものだと?元はと言えば、お前が変なことを言うから、生えてきたんじゃないのか。責任を取れ。馬鹿女。
 そう反論しようとした途端、前髪のつけ根に、鋭い痛みが走る。またか。手のひらでその部分をおさえたが、やはりカビは大きくなるばかりだった。何がおかしいのか。タチバナは、大きな声を上げて笑いだすと、僕の頭を指さしてきた。その眼は愉快そうに光り、細められている。心底から楽しんでいやがる。
 「馬鹿な奴め。本当にカビを生やしていやがる」
 ずれた眼鏡を直すと、腹を抱えて、なおもこちらを指さして笑う。うるさい。笑うな。
 僕の腕が当たった拍子に、いくつか本が崩れ落ちたが、気にも留めない。これで怒り出したら、少しはこちらもやり返せると言うのに、変なところで頓着しない。隙を見せない。相変わらず、なんて嫌な女だろう。そう思い舌打ちをすると、レジ横に山積していた本の上に、腰を下ろした。
 「君、何かしたのか?」
 じっと、彼女を睨みつけると、いつもの微笑を浮かべて「まさか、そんなことをして、わたしに何の得があるんだ」と、言ってなおも微笑む。いいから、笑うな。と、乱暴に自分の頭をかいた。得が無くとも、お前なら人を馬鹿にするためだけに、手の込んだ悪戯をしそうだ。そう言ったら、心外だと言う顔をして、肩をすくめた。
 「だいたい、頭にカビなんか生えるものか?」
 「実際に生えているじゃないか。それも、けっこう大きい」
 「ちがう。これは大きくなったんだ」
 額をおさえながら不機嫌に言うと、タチバナの表情は一変した。
 愉快そうに笑っていたくちびるを結び、一瞬大きく眼を見開いてから「大きくなった?」と、つぶやいた。また馬鹿にするつもりだろう、と軽く鼻を鳴らして、うなずいた。
 「何をきっかけに大きくなっているのか、わからない。さっきもあなたに対して悪口を訊いてやろうとしたら、突然痛み、そのあと大きくなったよ」
 「他には?」
 「ああ」これは言うべきか否か逡巡したが、案外と真剣な彼女の双眸に見つめられ、しぶしぶ口を開いた。「天道虫がさ、何もしていないのに死んだんだ」
 「どういうこと?」タチバナは相変わらず無表情だ。その中に、僕を責めていないかどうか、非難的な色をとっさに探してしまった、自分を恥じた。
 「だから、タコ足配線のそばにいた天道虫を見てさ、こいつが焼け死んだらどうなるかな、って思っていたら、本当にそうなったんだ。その前に、額が痛んでね。見たら天道虫が死んでいて、額を触ったらカビが、少し大きくなっていたよ」
 ふうん、とうなずいた後、彼女はしばし黙った。何か言うのかと思って、僕も黙りこんだ。
 途端、店の中は静寂で満たされる。壁にかかっている、柱時計の針の音しか聞こえてこない。タチバナは、ポケットから煙草を取り出すと、マッチを擦って火をつけた。僕にもくれよ、と手を出すと、煙草の灰を落としてきた。うわ、とあわてて手を引っ込めて、睨みつけた。床には、いくらか灰が散らばって、そのままだ。おそらく、灰皿さえあまり使わないのだろう。まったく、信じられない女だ。
 「気をつけたほうがいいよ」
 「あなたの奇行にか」
 「失礼だね」そうは言うが、タチバナは静かに微笑んでいる。一度でいいから、この女の狼狽した顔を見てみたいものである。そのカビ、と煙草の先で示される。だから火を向けるな、と眉間に皺をよせたが、一向気にしない。
 「あまり大きくしないほうが良いよ」
 「そうは言っても、勝手に大きくなるんだ」
 「いや。きっかけがある」
 「きっかけ?」
 「わからない?」
 やけにもったいつけるな。と、腕を組んで黙りこんだ。そんなものわかっていたら、わざわざこんな胡散臭い店になど来ない。そうは思ったが、言わなかった。タチバナは紫煙を吐き出すと、うっすらと笑みを浮かべて、足を組んだ。灰色のタイトズボンは足を細く見せると聞いたことがあるが、なるほどそう錯覚しないこともないな、と一瞬別のところへ意識を飛ばした。
 「悪い方向へ思考が向かうと、おそらくそれは大きくなる。そして、大きくなると、君が考えた悪いことも現実になる、と言うことさ」
 そんな馬鹿なことがあってたまるか。そう叫ぶよりも先に、店内に高い鈴の音が鳴り響く。それに、小さく舌打ちをする。
 なんで、こんな時に限って客が来るんだ。閉店って書いてあるだろう。自分を棚上げして、後ろを振り返ると、大学生くらいの男が立っていた。茶髪に、緑のチェックのズボンをはいている青年からは、ずいぶん軽薄そうな印象を受けた。苦手なタイプだ、と眉をひそめ、座っていた本の山から降りた。
 「やあ、また来たのか」そう言ったタチバナの声は、やけに温度の低いものだった。知りあいなのか、と聞くことができなかった。首を曲げた瞬間、偶然眼に入った彼女の冷めたまなざしに、汗が流れた。


   三へ続く


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