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「サイコパス」とはなにか。

皆さんは、「サイコパス」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

今でこそ、様々な分野の中で、簡単に利用されている言葉ではあるが、実際に、「サイコパス」という存在が、どういうものか、説明できるものはそう多くないように、見受けられる。


私は、当時、「サイコパス」という言葉を知らなかった。

知らない身でありながら、もともと、凶悪犯罪(と、位置づけられている)犯罪者の脳に興味を持っていた。

中野信子著の「サイコパス」(文春新書、平成28年11月初出)を、最初に手に取った時、目を見張ったのは、今でも記憶に新しい。

驚きと同時に、その場でページをめくり、夢中になって読んでしまい、新書ということも手伝って、一気に読み終えてしまい、気まずい思いをした。(もちろん購入済み)

これまで、様々なノンフィクション作品や、フィクション作品から、「サイコパス」として描かれてきた人物の脳について、科学的根拠や、統計学を元に、算出された著書は、非常に優れた「サイコパス脳ハウツー本、並びに解説本」として、幅広い世代に読まれている。

かつて、伊坂幸太郎著の「マリアビートル」(角川書店、平成26年9月初出)の中で描かれていた犯人の輪郭をなぞってゆくような、文章に「ふむふむ、そうかそうか」と、サイコパスへの理解も深まるのではないだろうか。

「アメリカの25人に一人はサイコパスがいる」と、言う伏線を張りながら、実は中学生男子が、その脳の持ち主であり、犯人でした、物語は今でも非常に楽しく読めるエンタテイメントであることは、間違いがない。

私は、その伊坂幸太郎が参考にした文献は、統計学上古いデータであることが気になり、当時は手を出さずにいた。

そんな時に、出てきたのが「サイコパス」という文庫だったのだ。


さて、ここまで長々と引き延ばしてきたが、世人はどれだけ「サイコパス」という言葉を理解しているのか、あるいは、理解しようとしているのか。そもそも、そんな本があることを知っているのか。

この文春新書も今では、もう統計学的データとしては、古いものかもしれないが、それほど古いものとして扱われないのには、やはり中野信子氏の専門家としての知識が生きているためだろう。


サイコパスとは、脳の一部が他の一般的な脳とは異なった働きを有するものを持っている人々をさし、生まれながらにして持っている才能といえる。

著しく、他者への共感性や、痛みに対する共有能力が低いため、一般的に躊躇するような場面、出来事に向かって、彼らはなんのためらいもなく、実行することができる。

彼らは、ナルシスティックな一面を持ち、外見や語りが過剰に魅力的、カリスマ性を持ち取り巻きを多くもつ、不正を平然と働き、嘘をつく。被害者に成り代わるのがうまく、倫理観や道徳意識というものが非常に低い。

そのため、ある物事の失敗から常に「学習」をすることしか考えておらず、その結果によってもたらされる問題や、周囲の評価にはまったく興味がない。

それが、殺人であれば、「なぜ失敗したのか?」ということだけを追求し、学習し、同じことを繰り返して、その物事を「続ける」ことにしか、重きを置いていないのである。


CEOや、起業家、凶悪犯罪者などに多いとされているのは、その脳機能の使い方次第で、白か黒、はっきりとわかれる性質を持っているからだろう。

もちろん、上記の特徴は必ずしも当てはまるというものではなく、「そういう傾向があるよ」くらいで、心に置いていたほうがいい。

アメリカでは全人口の約4パーセント、日本では、100人に1人が、そのサイコパスという脳機能を持っている、とされている。

中野信子氏も言及しているように、精神病者との違いは、本人が意図し、希望して行える。つまり、責任能力があるのに、常識の外を平気で歩けること、だろう。

そして、その逸脱行為の異常性は、「行為」そのものにあるのではない。人間の脳は本来、集団から排除されることを恐れて、「これをやったら、後ろめたい。ダメだ」というように、安全性に向けて、ブレーキがかかるようにできている。しかし、サイコパスと呼ばれる彼らには、そのブレーキがない、あるいはあえて踏まない、という選択を考えて、できてしまう。

その、脳機能そのものが、異質だということだ。


ここまできて、ある人は「身近にいるような」「もしかして、自分がそうなのか?」と、考えがちだが、私的見解を述べるとしたら、サイコパスというものは、まず相手にそれを主張してくることがない。

なぜなら、自分を異常だとは思っていないからだ。

だからこそ、誰かに認知される必要がなく、また評価される必要もないため、自ら「サイコパスです」という者は、サイコパスではない。
つまり、彼らはそんな愚かな行為をすることに、メリットがない限り、自覚があったとしても言わない狡猾な生物、ということだ。

くりかえしになるが、自らサイコパスだ、という者は、そこに明確なメリットがある、もしくは印象化させたい、など、何らかの理由がある、ということは、明記しておく。


世界の凶悪犯罪を見ていく先で、必ず語られるのは、「24人のビリー・ミリガン」(ダニエル・キース著)ではないだろうか。

彼は、アメリカオハイオ州生まれで、親から虐待を受け続けたあまり、人格が分離しまくり、そのせいでまともな社会生活が送れず、犯罪をやることでしか、生き残れなかった、有名な凶悪犯罪者である。

トマス・ハリス著の「羊たちの沈黙」のレクター博士の元になった犯罪者とも言われていたように思ったが、違っただろうか。


ここにきて、多重人格者の病性を語りたいのではなく、私は当時、ビリー・ミリガンを眉唾物として、見ていた。

しかし、彼がある人物から、人物へと変わった瞬間の記録を読んだとき、脳の限りない可能性を見出したこともあり、ついでにここで記している。

彼は、Aと呼ばれる「英国貴族のなまり」が入った英語を話していた人格が、Bという人格に変わった瞬間「コックニーなまりの英語」を、しゃべりだしたときに、裁判所がざわついた。

「英国貴族なまり」は、まず勉強して身につくものではなく、「コックニーなまり」も同様で、一人の人間が使い分けることなど、到底不可能とされている、からだ。

その記録を読んだとき、私は初めて、「多重人格」や「サイコパス」という存在は、当然のようにいるのだ、と思った。

そして、何食わぬ顔で、平気で社会の外側を歩きながら、生きている。

それを思ったとき、感情からくる嫌悪はなく、新しい人類の可能性、脳が当面の人類から進化するために、生まれてきた生物ではないか、と夢想した。

今はまだ、25人に1人、100人に1人、とされているが、そのうち「サイコパス」の人口のほうが増え、元来の脳機能を持った人口が減ったとき、私たちは、縄文期以来の人類進化の帳の前に立つことになるのだろう。

それまで、私は生きてはいないのだろうが、人類はやはり何らかの形で社会的構造を逸脱し、進化し続ける。地球が今の人類を受け入れなくとも、それに対応した生物はいつか、生まれてくる。

そのように思う時、私はいま現在の自分の在り方を貫き通して死のう、と思うのだ。






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