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人が死ぬということ

先日、共に働いてきた同じチームの男性が脳出血により急逝され、本日同僚と共に告別式に参列してきた。自分の記憶では5年前に祖父が他界して以来だが、親族以外の葬儀は人生初めてである。

祖父は長年の闘病の末、親族全員が揃った病院で最期を迎えたので目の前の死を受け止めるしかなかったが、今回はあまりに突然の死だったこともあり、まだその事実を受け止めきれていない。

思えば年末の最終出勤日、「今日は妻におせちの買い出しを頼まれているので、午後休を頂きます。みなさんまた来年!」とチャットでやり取りをしたのが最後だった。私はそれを見て、会社ではとってもクールだけど家では優しい旦那さんなんだろうと思った。どうやらその日に倒れてからそのまま意識が戻らなかったらしい…

誰がこのやりとりで最後になると分かっただろうか?生命の誕生は待ち構えることができるのに、死は本当に突然訪れる。あまりに不条理だ。

正直、中途で入社してから3ヶ月しか経っておらず在宅がメインなので顔を合わせた回数もそう多くはなかった。でも全く見ず知らずの他人の死ではない。もう部の会議に現れることはないし、メールの宛先からも外れているし、共有フォルダのPPの日時が2021.12.29から更新される事もない。仮に私がいつか突然いなくなっても、時が止まるのは自分だけで世界はこうしてなんら変わる事なく時を刻み続けるのだと思うと胸が締めつけられた。

受付に奥さんとの思い出の写真が飾られていた、「楽しい日々を過ごしました」という過去形の一文と共に。どれも会社で見せたことのない表情で幸せそうに笑っていた。と同時に、この文章が過去形であるように2人がこうして一緒に写真を撮れる日はもう来ないのだと思うと、勝手に目が潤んでしまった。私ですらこんな気持ちになるのだから、当事者は底知れぬ悲しみの中にいるのだろう。

なんで人は愛する家族や友人、恋人と別れて1人で死ななくてはならないのか。そしてその時は突然訪れるのか。大人になっても分からない、この世に生きる人間に残された永遠の課題だと思う。

最近物騒な事件が多いが、そうした事件に巻き込まれて死ぬのも、余命宣告されて死ぬのも、いつ死ぬかは生まれた時から決まっている運命だなんて本当なのか。死後の世界があるとかないとか、肉体が死んでも生命は生き続けるとか、考えれば考えるほどドツボにハマって頭がおかしくなりそうになる。

祖父の告別式も今日のような寒空の日だった。私の祖父は製麺業を営む一家の社長だったが、生き様から人柄など全てにおいて私が人生で最も尊敬する人物だ。かれこれ5年経っても、親戚の間でその話が出るとひっそりと涙目になっているし、これを書いている今も思い出して泣いている。悲しいとか辛いよりも、もう会えない寂しさの方が大きいかもしれない。祖父は物知りだったからこれまでも色んな話をしてくれた。先にあの世へ行ってしまった祖父に「死ぬってどういうことなのか」と聞いたら、きっともうそれはそれは細やかに話してくれるんだろうなあ。そちらでも元気にやっていますか?今も見守っていてくれたら嬉しいです。

残された私たちはチームで一丸となって仕事を頑張りたいと思います。

心からご冥福をお祈りします。

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