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白い春

この世の中の人に、どれだけの言葉を投げかけても足りない、だから自分は様々な表現方法で全力で自分の思いを形にする、伝えたいことを伝えるために、心に話しかける。

それでも解らない人は永遠に、最後の時まで解らない、解ろうともしないと思う。頑固で怒りっぽくて、人の言うこと聞かないくせに誰かを崇拝してぶら下がる、そんな人は身近にもいる。

人は敵じゃないのに、いくら誰かに憎しみを持っても自分が満たされるわけじゃないんだ。自分を不幸にしてるのは自分自身であり、他の誰でもない。

イライラするのも解る、世の中せかせか忙しい日常を生きてなきゃいけない、面倒くさい生活を毎日続ける。すれ違う人すらうざくて、邪魔くさく感じてしまうのも解るよ。

それでも、誰しもが様々な思いを抱えて生きてるんだ。そのイライラの裏には何か悲しい物事があったのかもしれない、過去に受けた何かの心の傷を持っているのかもしれない。

自分だけが、そう思ってしまうけど、言葉や顔に出さなくても凄まじく悲しい思いをしているのかもしれない。表面的には解らない何かを抱えて生きてるんだよ、みんな。


買い物してる時、レジ待ちをしてたら前に耳が遠い高齢者がいて、店員が何度大きな声で言っても聞こえない。大きな声で何度も言ってやっと通じる。

買い物していても、そんなにたくさんでもなく、何かのお茶菓子か、よく見えなかったけど1個だけの買い物だった。小銭を出して、袋に入れて、腰が曲がってさ、歩くのもゆっくりで、そんな姿見てると涙が溢れてきた。

思い出してしまった、他界した母のことを。気づいたら本当に涙が出ていた。

別にそんなの顔を誰に見られても関係なかった、どうせ誰も俺の顔なんか見ない、泣いていても気がつきゃしない。思いの外、人の顔なんか見てないんだよ誰も、だから昔からよく言っていた、他人から見たら、自分なんてどうせ他人にしか見えないんだから何にも気にすることないって。

そのお婆さんは、本当に歩きが遅くて、ゆっくり歩いて帰っていた、杖をついて、巾着袋をぶら下げて。同じだった、他界する直前の母と、同じに見えて胸が苦しくなった。

母は買い物するのが楽しみだった、何てことない普通の普段の買い物、スーパーで晩御飯のおかず、レシピとか考えながら店内を見て歩く、いつも1人だけど買い物に行く時は凄い嬉しそうだった。

そんな母が、病気で買い物もまともに行けなくなり、杖をついてもまともに歩けない、それでも母は買い物に行こうとしていた。

自分が全ての買い物も家事もやるようになってから、母は時折淋しそうな顔をしため息をつく、そんな母を見てるのが苦しくて、トイレに行って泣いていた。そのたびに何とか笑わせようと思って冗談をたくさん言ったり、映画や日本のドラマや海外ドラマをたくさん見せたり、YouTubeもテレビに出力して見せてあげた。特に動物ものは喜んでくれた。


それでも、自分はイライラしてる時に、母に酷い事を言ったこともある、あの時何であんなこと言ったのか、いくら後悔しても時は戻らない。今の時間はずっとあるわけじゃない、いつかは必ず終わりがある。


始まりがあれば終わりもあり、誰しもが必ずくる別れ、その別れのために出会いがあり、終わりのために始まりがある。

その尊い時間のために愛を探す、偽物じゃない本物の愛を。他にはない特別を探し続ける、何処にあるのかも解らない大切なもの。

かけがえのない時間のために。その時が今なら、それを大切にしなきゃいけない、二度と戻らない尊い時間、時代、日常。


そこには目に見えない何かがある、不思議な何かがある、他にはない何か。過去も未来も今であり、今感じた何かは過去と未来の中にある大切なもの。

その大切なものを得れば、後に悲しみは深くなる、深くなるけど尊い時間。思い出はせつないもの、戻りたいけど戻れない記憶にある景色と風景、出来事、それを思い出させてくれるのがその時に聴いていた音楽だったりする。それを聴けば当時を思い出す。


世の中にはたくさんの曲があって、たくさんの物語と思い出がある。それはずっと続くことで、長く生きるほど思い出は積み重なる。


悲しい思い出は、悲しい物語と悲しいメロディともリンクする。その当時は、自分の悲しみと重なるとは思わないけど、その時の思い出ができるから、だからその時の悲しみも今の悲しみともリンクしてしまう。

母と過ごしていた時間を思い出す。テレビが好きだった母は、よくテレビドラマを見て泣いていた。あの頃の思い出が甦る。


お涙頂戴じゃない、プロパガンダじゃないんだ、感動ポルノじゃない、この世の中には本当に悲しい事がたくさんあるから、だからそんなドラマやメロディが心に響くんだ、フィクションなんかじゃない、みんなの物語なんだ。誰もが経験する辛い現実の中にある人々の物語なんだ、それを深く表現してるもの。

物語も、音楽も、絵も彫刻も人が表現するもの、それはみんなが心に抱えてる悲しみや淋しさ、優しさや愛だったりする。それがあるから人は優しくなれる、許しの心を持つ事ができる、偏見も差別的な意識も捨てられる。

皮肉も勘繰りもいらない、心に響くなら素直に受け入れたらいいんだ。喜怒哀楽はそのためにあるんだから、感情を素直に表現することは恥ずかしい事なんかじゃない。

だから自分は、本当に愛する人がいたなら、素直に躊躇せずに堂々と愛していると言う。それを表現するために一生懸命に言葉を尽くす、届くまで諦めずに、いつまでも。

人に知られて恥ずかしいと思う人を愛するわけじゃない、誇りを持って堂々と愛している、そう言えばいい。

自分は、恥ずかしいことなんか何にもない。恥ずかしい事なんか言っていない、誇るべき思いを語っている。誰にどう思われたって関係ない、これが自分だから。







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