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愛のために生きて、愛に朽ちる。孤独でも愛を胸に懐き続けられたなら、永久に自由でいられる

人の心は不自由なもの、なぜそうなるのかと言うと、やはり羞恥心と承認欲求、それが自分の心を縛りつけてる。だから言いたい事も言えなくなるし、言わなくなる。誰かに代弁してもらいたい、それがエコーチェンバーになって、やがてはカルト宗教化する。

自分の言ってること、知識や情報は間違ってはいない、そう思うのは自由、だけどそれによって従わない者を敵視するのは違う。そんなことをしても何の意味もない、何かを信じてる人達はそれぞれが、それぞれの正解や絶対を持っていて、それに反する事を言われたら誰しも気に入らないと思う。

そのせいでインターネット上では分断と対立、罵り合いと批判、論破や説得、罵詈雑言で溢れている。

全て無意味で、何かの思考主義に縛られた人達が逆側に覆ることなどない、だからその無意味なシーソーゲームから降りないと、その人達は永遠に対立分断して争い続けるだけ。


自分は、TwitterXなどでは、そのツイート、ポスト内容とは関係なく、そのアカウントの持ち主に話しかける。だから、たまに勘違いさせることがあるけど、自分は何を言うかはその誰かが言った内容に必ずしも関係するわけじゃなくて、その人に思うことをその時に素直な言葉で表現する。


しかし人間ってのは、その時の何かと何かを結びつけてしまう癖があり、その時に発した言葉に対して自分が何かを言われたと、そう思い込んでしまう。

誰かに何を言う、それにルールなんかあるだろうか、酷い暴言や悪口を言っているわけでもないなら、その時に何を言い表現しようが自由だと思う。


例えば、誰かがTwitterX上で『おはよう』、と言ったとする。それを批判する人はどこにもいない、それに対し、普段からその人に感じるイメージを言ったとする『あなたはいつも明るい、でも何となく影が見える、自分はそう思う』、それは批判でも悪口でもない、その人を気にかけてかけた言葉。しかし文字は冷たい、ニュアンスが伝わらないから、何かの皮肉のような意味だと受け取られがち。

人は誰しも脳内で連想ゲームをしてしまうもの、ポジティブならポジティブな連想ゲーム、ネガティブならネガティブな連想ゲームを勝手に脳内で繰り広げてしまう。

こう言われたのは、こうだから、それはこういう意味で言われた、…そんな風に勝手に脳内で連想ゲームをしてしまうもの。ポジティブにとらえるなら良い意味となるが、それがネガティブになると全ての言葉が否定されたように聞こえる。だから勝手にアポフェニアに陥り、勝手に怒りが沸き起こり、その結果パラノイア、悪魔の囁きに負けてしまう。

だから攻撃的になる、同調しない者はみんなが敵のように感じてしまう。そのせいでフィルターバブルが発生しエコーチェンバーばかりが跳ね返るような小さなカルト集団をあちこちに作ってしまう。

それが、その人達の居場所になって、その集団意識に溶け込めない、従わない者を一斉に排除しようとする。だから思想主義を持てばがんじがらめの不自由な鎖に繋がれた檻の中に閉じ込められる。その結果、何かを言いたくても何も言えない、勇気を持って何かを言えばその中で一斉に攻撃される恐怖を持ち、その仲間意識と帰属意識の中でアメーバの中の一部となる。

思想主義などに属す必要なんかない、そんな不自由な鎖引きちぎってしまえ、そんな檻の中に閉じ籠らず外へ飛び出せばいい。

他にできることはたくさんある、やりたいことをやり、言いたいことを言い、今思うことを素直に表現して何かを言うことに怖がらず臆せず、自分の心を隠さず封じ込めずに素直に言えばいい。誰かに言ってほしい事のエコーチェンバーなど必要ない、自分が思う通りに言いたいことを言えばいい、生きたいように生きればいい。


そこに属すからって、その通りの人間でいる必要なんかない。本来の自分が何処にいるのか、本当の自分は何を思いどう考えるかを思い出さないと、いつまでも何者かの操り人形、自分ではない何処かの誰か、その他大勢のパペット人形になってしまう。

誰かのために生きるわけじゃないなら、誰かのために尽くす必要もないし、誰かのために何かを言う必要もない。その同調圧力や仲間意識で自分が好きなようにできない、言いたい事が言えないなら、そんな自分を不自由にする場所から抜け出してしまえばいい。

今の自分を今生きないなら、いつ自分の今を生きるのか。誰のために生きる、何の思想主義のために尽くしている、そんなもの自分の大切なものなんかじゃない。そんな鎖は全てぶっ壊してしまえ、消し去ればいい。怒りなどいらない、善悪の知恵も羞恥心も承認欲求も何もいらない、ただ今を生きればいい。

偉人でも有名人でも、その誰かの承認欲求のために生きる必要なんかない、何者かの支配下でいる必要はない、どんな人間でも同じ人間であることに変わりがない。神格化などしなくてもいい、人間は神じゃない、自分より優れた者なんかいない。天は人の上にも下にも人を造らず。

人間が考えることに絶対などない。それはどんな人間の考え方も同じで、そこに絶対的な何かなんか無いんだ。思想主義なんか全部いらない、それが人の心を支配している。そんなものがあるから人は争い続ける、怒りに満ちている、分断対立してお互いを遠ざける。


そんなことよりも大切なことがある、我々には今そう生きなければならない大事な事がある、思想主義なんか鼻くそにもならない、生きている今だからこそある最も大切なこと。

それが、愛に生きて愛に朽ちること。


欲望だけじゃない、愛を大切にして、その愛を守るために自由に生きる。何者にも支配されない愛を守るために、最も大切な、最も愛する人と共に生きる今を、その尊い時間を守るために。他はおまけみたいなもの、愛より大事な事は他にはない。

ルッキズムも年齢も知識も肩書きもステータスも何も関係ない、そこにあるのはこの世で最も大切にしなければならない、儚くて尊い他にはない最高級の愛。

容姿などに悩む必要はない、年齢など関係ない、お金などいらない、自然なる愛に知識なんかない。

迷わず誰かを愛せ、迷わず愛を注ぎ、迷わず愛に突っ走ればいい。神の秩序である自然の摂理、自然法であるアナーキーの中に芽生えた男と女の激愛を信じて生きればその心は必ず自由になれる。人間は恋し愛する生き物、それが生命のメインイベント、それなくして今を生きることはできない。

人は誰しも愛のために言葉を尽くす、いつか与え合う愛の夢を実現するために。

その想いが叶わなくとも、本当の激愛は永遠に消えることがない永久なる光。


この命燃え尽きるまで、その激しい光のシグナルが消えることはない。








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