緊急一時退避になりました。
一時帰国が決定した。
治安の悪化
研修の中止
アジア人へのヘイト
実は中間報告さえもできていない。
数週間前からすっかりペースダウンしていた私は、この一時帰国に対して悲しみや悔しさを感じられずにいる。
むしろそのことが悔しくて悲しい。
だって全力で向き合えてなかったってことだから。
1年目に区切りをつけることも、配属先と共有することもできず、周囲の状況に振り回されるようにして時間が流れていったこの数ヶ月。
でも迷いや葛藤で、一旦休まないと壊れてしまいそうだった私にとって帰国しなさいと言われているかのようなタイミングでの帰国になった。
大切なひととの不調和
大切な家族の病気
ちゃんと日本で自分にとってなにが大切でどう生きていきたいのか向き合い考えるための時間が必要なんだと思う。
帰りたいと思っていたはずなのになぜか気力が湧かない。
一旦休めることへの安心感の反面、逃げるようにしてこの地を去ることに後ろめたい気持ちを感じる。
寄り添ってくれるひともいる。理解してくれるひともいる。
でもきっと、"逃げるのね"そう思うひともいるだろう。
事実、医療水準が低く重症となった場合に対象できないことが退避の理由のひとつだし、"逃げる"わけだからそう思われても仕方ない。
こういうときどんなに現地の人々に寄り添おうとしても、結局は"外国人"であることを痛感させられる。
こんな不安定な環境で、情熱を絶やさず何年も現地の人々と働いている先輩たちは本当にすごい。
自分は足元にも及ばないし、覚悟も情熱も中途半端なままでがっかりしてしまう。
でも、そんな外国人の私に寄り添おうとしてくれる仲間ができたのはこの一年の大きな成果だったのかもしれないとも気づかされたこの緊急事態。
今日同僚のナースに何気なく"退避になるかもしれない"ということを伝えた。アジア人はヘイトの対象になり各国で攻撃を受けていること、私が受けた新型ウイルス関連の攻撃について彼女に話した。
"アーウェ!チッチッチッチッ(ザンビアの女性たちは同情するときに舌打ちをする笑)でも私たちはひとつだから、いやなことをされたら報告していいのよ。"
彼女はそう言ってくれた。そんな彼女も、1年前は"お金をくれ" "お昼ご飯を買ってこい" と私を金蔓としてしか扱ってくれず関わるのが怖い存在だった。
1年間でやっとここまできたんだ。そう思った瞬間だった。
明日、配属先に行って退避のことを正式に報告する。
あっさりと私のことを見送るひと。
寄り添ってくれるひと。
神様からのメッセージをくれるひと。
帰ってくるときのお土産をねだるひと。
きっと反応はそれぞれだろう。
1年間の関わりのなかでだれがどんな反応をするかはなんとなくわかる。
でもそれぞれの反応は私のここでの1年間を映す鏡なんだろうなと思う。
まだ心の整理がつかないし、ここに戻ってこれるのか、はたまた自ら戻らないという選択をするのか。
約半年間で集めてきた低体重児たちのリスト
集計途中のデータ
重症度の高い子どもたちのフォローアップ
栄養士が突き放した親子にこっそりとRUTFを渡したりしてたけどどうなるだろう...
考え出したら眠れない。
日本にある大切なものへの思いと同時に、ザンビアで良くしてくれたひとや介入中の気になる人々の顔が浮かんできて心が割けそうになる。
10年前に国際協力に夢を抱いたとき
3年前に合格通知を受け取ったとき
1年前にこの地に赴任したとき
そしていま
すべて想像通りにはいっていなくて、どぎまぎしてしまうけれどいつも全力で悩んで迷ってここまできた。それだけは自信を持って言える。
最後になるかもしれない任地での1日。
精一杯彼らとそして自分と向き合おう。
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