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【経済/世界史】通貨危機について

ポンド危機

ポンド危機(ポンドアタック)は、「ブラック・ウェンズデー(暗黒の水曜日)」とも呼ばれ、1992年秋に発生した、イギリスの通貨であるポンドの為替レートが急落した出来事(通貨危機)をいう。

簡単な背景
1979年3月、欧州共同体(EC)は欧州通貨制度(EMS)を採用し、欧州為替相場メカニズム(EMR)を導入します。これは2通貨間の変動を市場介入等で±2.25%の範囲内に抑えるというもので、緩やかな固定相場制です(通貨の一方がイタリア・リラの場合は±6%)。
1990年になってイギリスもEMSに参加しますが、ポンドにとって不運だったのは、この年に東西ドイツが統合したことです。その結果、ドイツはインフレとなり、金利を引き上げます。マルクには上昇圧力が加わった結果、メカニズムを維持するため、イギリスを含むEC各国も利上げに追い込まれます。しかし、この当時のイギリスは低成長にあえいでいました。とても金利を引き上げられる状態ではなかったのです。

ポンド危機概要
金利を上げれないイギリスに目をつけたのが、ジョージ・ソロス率いるヘッジファンドでした。彼らはオプションなども駆使してマルク買い・ポンド売りを仕掛けます。そして1992年9月にポンド売りの流れはピークを迎えます。イングランド銀行はこれに対抗して、16日には公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらに数時間後には15%へ再利上げします。しかしポンド売りは止まらず、イングランド銀行はERMの維持を放棄。公定歩合を10%へ戻してしまいました。※2
この日は後にブラックウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれるのですが、先進国の中央銀行がマーケットに屈した日だったわけです。

ポンド危機のその後
最終的に売り浴びせに負けたポンドは、欧州為替相場メカニズム(ERM)を脱退し、変動相場制へと移行することになった。ポンド危機は欧州通貨にも波及し、1993年8月にEMSは変動幅を±15%へ拡大する。イギリスがERMを脱退し、ユーロ導入を断念して以降、イギリス経済は1993年から2008年まで長期に渡って、失業率の改善や安定経済成長、安定インフレ率を実現することが出来た。
イギリスがユーロに参加しておらず、EUから離脱したことは、このポンド危機の歴史的背景も少なからず関連していると思われる。

※1 欧州為替相場メカニズム 略:ERM)は、ヨーロッパにおける為替相場の変動を抑制し、通貨の安定性を確保することを目的とした制度である。欧州委員会は1979年3月、欧州通貨制度の一環として欧州為替相場メカニズムを取り入れ、欧州連合における経済通貨同盟や1999年1月1日の単一通貨ユーロの導入に備えた。

※2 金利の動きと為替には密接な関係がある。金利の変動が為替に影響したり、逆に、為替の変動が金利に影響することもある。 お金は、常に有利な投資先・運用先を探して移動する。 ポンドの金利が低く、マルクの金利が高いという場合をあげてみると、人々はより有利な金利を求めてポンドの資産の比率を減らして、マルクの資産の比率を増やそうとする。 これにより、金利の高いマルクを買うという動きが出てくることによって、為替は「ポンド安マルク高」となる。 イングランド銀行はデフレ中にも関わらず、金利を上げることでポンド安を抑えようとした。

アジア通貨危機

アジア通貨危機とは、1997年7月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落(減価)現象である。東アジア、東南アジアの各国経済に大きな悪影響を及ぼした。

簡単な背景
アジア通貨危機の原因になった問題の一つが「ドルペッグ制(固定相場制)」という仕組みです。
ドルペッグ制とは、自国の通貨の為替レートを米ドルと固定する仕組みのことです。為替相場を固定する具体的な方法としては、以下の2種類があります。
•政府が自国金利とアメリカの金利を連動させ、為替相場の動きを最小限にする
•政府が自国通貨を売ったり買ったりすることで、為替相場を意図的に変動させ、ドルとの変動を最小限にする
アジア各国は自国で生産した製品を輸出することで利益を得る、輸出型の貿易構造で成長してきました。1985年のプラザ合意以降、日本では円高が進みました。円高が進むと価格競争力の点で不利になるため、コスト削減を目的に海外へ生産移転が進みます。その多くの日系企業がタイを始めとした東南アジア地域へ工場を移転し、海外直接投資が増大しました。特に自動車メーカーの現地生産が大幅に拡大し、タイ国内では自動車産業が成長。生産が追いつかないほど供給が拡大し、タイの輸出産業が自動車を中心に規模を伸ばしました。輸出型の貿易構造では、自国の通貨が安く維持されていることが必要です。アジア各国は投資を呼ぶためにドルペッグ制を採っていたため、アメリカがドル高政策を行うと自国通貨高になってしまうという弱点を持っていました。ここが、アジア通貨危機を起こすきっかけになったのです。

アジア通貨危機概要
通貨危機の引き金を引いたヘッジファンドは、アジア通貨が本来のレートから外れたものだと考えました。東南アジアの各国は、人件費の安さから日本や欧米各国によって生産拠点になっていました。つまり、安い場所に工場を作ろうと考えられていたのです。
しかし、90年代に入るとより安い中国を「工場」にしようと考え、日本や欧米の企業は東南アジアから中国へ生産拠点を移し始めました。そのため、東南アジアに投資していた投資家たちは「東南アジアにこのまま投資していて大丈夫かな?」と不安を抱くようになっていました。さらに、1995年以降アメリカは「ドル高」政策を採用するようになります。その結果、ドルにペッグ(固定)しているアジア各国も通貨高になり、輸出が伸び悩みました。その結果、アジアに投資している投資家たちはさらに疑念を持つようになりました。つまり、アジア各国には経済成長に行き詰まりが生まれはじめているのに、ドル高に通過を固定している状況にあり、これをヘッジファンドは実体経済とずれていると考えたのです。こうした経緯から、ヘッジファンドを中心とした機関投資家はタイのバーツを中心に空売りをしかけたのです。
投資家によってバーツが売られても、タイ政府はドルペッグ制を維持するためにバーツを買い、為替相場を変動させないように買い支えしようとしました。また、バーツ売りに対してシンガポール、マレーシア、香港と協調介入やタイの非居住者に対するバーツへの資本流出規制などの防衛策を実施しました。しかし、タイ政府がバーツを買い支えられるのは、政府が持っているドルの量が上限です。つまり、タイ政府が保有するドルがなくなると、バーツを買い支えられなくなってバーツはドルペッグ制を維持できなくなり、暴落してしまうのです。これはポンド危機の構図と全く同じものになります

アジア通貨危機のその後
バーツの暴落はタイと深い経済関係にあったアジアの各国に影響しました。具体的には、フィリピン、マレーシア、インドネシア、韓国です。これらの国は債権不履行(デフォルト)の危機を避けるため、IMFからの支援を受け入れることにしました
IMFに求められたのは、アジア各国が債務を返済できるだけのドルを融資し、アジア経済を危機から救うことでした。しかし、結論から言えばIMFの政策は失敗し、アジアから強く批判されることになります。それは、IMFが単に融資するだけでなく、融資の条件として構造改革(コンディショナリティー)を求めたからです。
IMFは支出の抑制とともに、高金利政策でお金の貸し出しを減らし、さらに政府の財政支出を減らす(緊縮財政)ことで、収支を健全化しなさいということを求めましたが、IMFの構造改革はある意味で間違ったものでした。なぜなら、アジア各国の問題は単に「ドルが足りない」ことであり、通貨危機が起こるまで十分に成長しており、返済能力に問題があったわけではなかったからです
アジア各国は、欧米の機関投資らから攻撃された被害者であるのに、さらに欧米中心に動く国際機関の支援策でダメージを与えられることになったといえます。そのため、アジア各国は「欧米に頼ってられない」「アジアで連帯しなければならない」という危機感を持つようになりました。それが、現在まで続くアジアの協調的な外交や構想につながっています

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