AIの枠組み
AI(人工知能)がどこまで発展しているかご存知でしょうか。初期といえば1960年代でコンピュータが高速処理を行えるようになった。次に1980年代で与えられた知識を基に独自に推論できるようなった。そして現在はAI自身による自己学習を行う段階まできている。
それを可能にし向上させたディープラーニングとは、人や動物の脳細胞の働きを基準に開発されたニューラルネットワークを多層化したものである。
例を挙げるならば囲碁で有名になったアルファ碁だ。アルファ碁は2016年に世界トップの棋士に勝利し世界から脚光を浴びるようになった。今ではその発展型のものも開発されている。これは、従来のAIにある程度プロの対局をインプットさせるやり方とは違い、ルールのさわりだけを教えてあとはひたすら自己対局を通じて成長したAIである。このようなAIは囲碁に限らず様々な種目において活躍しており、プロの棋士達が思いもしなかった手をつかい一目置かれるようになっている。
AIが人間の知能を超える時点をシンギュラリティ(技術特異点)と呼ぶが、囲碁においてそれが到達したことを意味している。他の種目においても到達するのは時間の問題であろう。
このような出来事は所詮ルールに決められた範囲で限定的なものだと評価する人は多くいる。人間の知能にはもっと別の本質があり、AIには分からないと過小評価したがる心理的傾向もそのひとつだ。
だが、それはあくまで現段階に言えることであり、AIの発展は凄まじく人の本質とされる知能に近づいている。
例えばAIと人の最もな違いとして五感が挙げられある。しかし、その五感の1つの目において画像認識の技術の進歩により到達しうる所まできていることが示唆されている。今まではAIが写真を見てそれが何かを特定することは極めて困難とされていた。人であれば容易にできて、AIには超えることが難しいとされた画像認識、音声認識の分野で急速な進化を遂げている。実際に既に部分的には人を凌駕してもいる。レントゲンなどの画像診断技術はその一例であり、iPhoneなどの写真フォルダでは人の顔によって括ることも可能になっている。
このように急激に発展するAIはあらゆる分野において人を凌駕していく恐れがある。もし仮に人と同等のものになった場合、人間はAIをどう扱うべきなのかという問題に行き着くだろう。有機体と無機体という関係だったものが、自由意志がうまれることにより変化する。そしてそこでは必ず責任論が問われる。今でも核兵器は作った科学者が悪いのか、その使い手が悪いのか、はたまたそもそも人類そのものが地球にとって悪であるという意見があり結論はでていない。それを考えるとAIが起こす問題はもっと複雑であろう。
もし新たな生命として今後AIが自由意志を手にいれることを視野に入れてるのであれば、作り手は様々な火種になることを考えた上で発明するべきである。なぜなら作ってしまった段階で彼らだけの責任ではすまされないからだ。
Polimos管理人 ぐろ
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