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食べかけの昼飯を持ったまま飛ぶことはできない

少しでも涼しければ、隙を見て出てくるらしかった。
猛暑の今年は油断していたが少し気温が低いと思えば飛んでいる。
友人が仕留める。
横の動きで叩くと逃げられやすいが縦の動きだと仕留めやすいのだと言う。
潰した手に黒くはりついて、血はついていなかった。
払うとへろへろと地面に落ちて、何事もなくなった。

「この間は1日に3件も起きて、ひどかったな」
鉄道会社勤めの友人が呟いた。
「あれって、どういう人がどうなったかとか、分かるんよな」
その日夏空がやけに涼しいのは台風の影響だった。
「若いのに……」
言いよどむ彼女の口ぶりを印象的に思った。

ジョージ・オーウェルは、絞首台に上がる死刑囚が階段の途中の水たまりを避けたことに深く感じ入ったという。

去年の夏の終わり、大学院入試に一度落ちた時、私の叔母は電話口で
「何事もな、大したことないんじょ」
と徳島訛りで私に言った。

「電車だけはやめて」
年上の彼曰く、好きなものが大切な人に牙を剥くことになるとそれはもうきっと耐えられないのだと。
「あの子たちをそういう目で見ないであげて」
真夏の線路は朝でも十分怯むに足る照り返しを図っていた。
彼らも覗き込むこちらの様子を伺っていた。

「少年!何だかわかんないけど、人生そんなに捨てたもんじゃないぞ。おじさんなんか、競馬で負けて、今60円しか持ってないけど、がんばって生きてんだ。キミが死んだら、お父さんお母さん、どう思うかなぁ」
「死ぐ?」
「死ぐ?あー、そうさ、死ぐ気になりゃ、なんだってできるさ」
「死がねーよ」
「そっか」
「空飛ぶんだ」
「ふふん、そいつぁよかった」
「月にタッチ!するなんてワケないさ」
「うんうん、その意気だ」
「I can fly!!」
「Yes, You can fly!!」

松本大洋作『ピンポン』のペコは飛べた。
橋の上から。

新快速が通過した。
私の目の前で。

私の目の前を、身体を通り過ぎていくほどに身動きが取れなかった。
叩きつけられるほどに息を凝らして見送った。

何本も、何本も、何本も、何本も。
避けて、避けて、避けて、避けた。

ホームのまばらな人影の隙間、
誰かの零れ落ちた生活が破片になって、
そこら中に散らばっているのを見た。

一つの世界と思考が全く消え去ってしまう瞬間まで、私たちの爪は伸びるし瞬きは絶えないし身体はしきりに生きんとするベクトルを変えない。

ほどけた靴紐を結んでコンビニで昼飯を買うことしかできない。
夏のクセして腐敗なんかしてくれない。
水たまりを避ける程度の勇気しか、所詮持ち合わせていない。

「僕の血は鉄の味がする」
駅のホームで立ち尽くすついでに問いかける。

君たちの血も、鉄の味がするのかい。


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