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自己満主義のすすめ/循環すると無料/種を植えること

やりたいことっていうのは、やっぱり食べ物のことが多い。畑に新しく植えてみるとか、お菓子を作ってみるとか、あれが食べたいとか。そういうの。わたしのやりたいことっていうのは、そんな日常的な些細なことである。でもそのことに不満もなく、納得感がある。満たされている。

人の役に立ちたい、影響を与えたい、社会を変えたい、などと思う気持ちの9割は、自分が救われたいだけなんじゃないかと思う。もちろん起業家みたいな人は心の底から人の役に立つ大きなことをしたいのだと思うけど、そうではない多くの気持ちは、自分が救われたいが根本にあって、自分が救われれば、人に影響を与えたいなどという大きくて曖昧な気持ちも収まるんじゃないかと思う。それくらい、特に大勢の人に影響を与えたいという気持ちは不自然で一時的なもののように思う。まずは他人じゃなくて自分が救われることに集中する。将来的に何をやりたいかは、その後にはじめてまともに考えられる。

わたしは自己満気質の自分が気に入っている。学生の頃は困ってる子供を救いたいとかいう大義のもと教育系の職業を目指していたけど、自分一人すら満たせないような状態なのに、どうして多くの子供を救えるのだろうか。自分のためよりもまず他人のため、がかっこよくて良いことに思えるけど、順番が間違ってると思う。職業選択の時、だいたいは順番が間違っている。市場だとかジャンルだとか困ってる人ありきで自分の職業を考えてしまう。まずは自分、余裕が出てきたら他人。この順番の方が、不満もイライラも嫉妬も起こらず平和になると思う。他人優先が当たり前に思ってしまうからこそ、自分が満たされないうちから他人を満たす努力をするようになり、疲れてしまったり、イライラしたりする。まずは自分優先でいいのに。

自己満気質はわがままの押し付けや攻撃性とは違い、強いていうなら回避傾向、ちょっとした諦めに近い気がする。自己満と他人のためが重なる部分があればやるし、自分を満たすのは自分だから他人に期待しないし、少し傷つけられても気にしないし、ドライでさっぱりしてて気楽な性質のつもりだ。

最近SNSを見ると疲れてしまう。何ででしょうね。単にスマホをいじる時間が伸びると疲れるのか。情報量がキャパをこえてるのか。特に何もしてない自分と他人を比べてるのか。他人と比べて嫉妬するようなことはないけれど、「同意できないな、むしろその意見は違和感すごいぞ」みたいな意見を見ると疲れる。こういうときにいちいち書き込んでしまうのが、クソリプマンなんだろう。クソリプマンの気持ちが少しだけ分かったかも。

特に「自分が否定されているように感じてしまう意見」と「自分も通ったことのある過ち(に見えるもの)」には反応したくなるんじゃないだろうか?と予想している。わたしの心がザワザワするのは、主にこの2つだ。

自分の正しさが正しさであってほしくて、自分的に間違っているものをそのままにできないんだろう。なんとなく分かった。クソリプだって、内容がズレてなくて、言葉遣いがしっかりしてて、相手への敬意があればむしろありがたいコメントになる。内容がズレてて、言葉遣いがおかしくて、相手への敬意がない場合はクソリプになってしまうんだろうな。

内容のズレって結構生まれ持ったものだと思うから、直すのが難しそう。どうしたって自分にとっては自分が基準だから、自分がどういう方向にどれくらいズレてるのかを把握するのは難しい。

よく分からないけど、少なくとも他人と議論するほど人と関わりたい欲求はないから、身近な人と色んな話ができればそれでわたしは十分だ。今は前提知識がだいたいそろってる人と気軽に話せたら十分だ。

人との関係も生きる上では必要だけど、それと同じようなランクで自然との関わりも必要だと思う。人間関係という言葉はよく使うけれど、自然関係、植物関係、という言葉はない。(ちょうどいい言葉があったら教えてほしい。社会資本ともまたちょっと違うと思う。)

現代でまともに暮らすには完全自給自足は厳しくて、お金がある程度あった方がいい。なくても生存できるけど、ないと、一気に生きるハードルも心豊かに生きるハードルも上がってしまう。お金という発明はすごい。

でも全てをお金で買うのも高くつく。せっかく地球には無料のもの、たとえば空気や太陽や土や水があるんだから、その無料のものを、あまり変性させずにそのまま使ったらいいと思う。毎日太陽が出てくれたり、定期的に雨が降ったり、ずっと空気があったり、っていうのはすごい循環だ。季節もそう。すごい循環だ。わたしは循環が好き。持続可能性とかいう言葉に近いかもしれない、循環。右肩上がりや消費はずっとは続かない。燃料となる何かが必要で、何かが何かの下に位置して、供給し続けなきゃいけない。上と下がある。

でも循環は、自動的に、またはちょっと手を加えるだけでずっと続いていく。上と下じゃなくて円になっている。朝が来て昼が来て夜が来てまた朝が来る。春が来て夏が来て秋が来て冬が来てまた春が来る。勝手に巡る、無料で。これってすごいことだし、しかも無料。この無料の奇跡を最大限使いながら生きた方が楽だと思うのです。

働いたお金で野菜を買うのもいいよ。働くことが苦痛じゃなくてそこそこ楽しくて、自分の何も削らずにお金が得られるならいいよ。それも自然だから。循環だから。

でも、もらった種をまいて無料の土と空気と太陽と水によって野菜が実って、それを食べられたら、全部無料でなんだかすごく自然でラッキーで面白いと思うんだよね。そしてまた勝手に種がこぼれて来年も野菜が実ってくれる。自然の中で勝手に野菜がなるわけ。無料で。お金と関係のないところで野菜ができるわけ。もちろん多少の草刈りとか植える場所の調整は必要だから、賃金をもらわない調整的な労働は必要になるけども。でも主役は自然。

貨幣なしで生きるのは難易度高いけど、自然の流れに身を任せれば無料でもらえるものはたくさんある。土、太陽、水、空気、四季の循環、種の循環。これらを活用して、少しだけ貨幣の世界に組み込まれない世界観を持っていてもいいと思う。もう一つの世界みたい。その世界はオーソドックスな現代社会を生きるのに、励みになるし、逃げ道にもなるし、癒やしにもなる。

ここまで「自己満主義」や「循環すれば無料」について考えていることをメモした。自己満主義も循環の暮らしも、結局は恵まれ具合と自分の開拓してきた道のりがあってこそ成立している。土地を貸してくれてる人、農作業をできるくらいのスケジュールで仕事をくれる人、自己満主義で生きても見守ってくれる人、種を受け継いできてくれた先人、爆弾が落ちてこない平和な時代、生きづらい自分の心と対話してきた自分、そういうものが全部合わさって今のそこそこの満足が得られている。だからまずは生きるもの、他人、過去に関わってきてくれた人、自分含めて全部にありがとうという気持ちを持つ。絶妙なバランスを保ってくれている環境に対してありがたいと思っている。

自己満主義だと誰のためにも生きないのかというと、また違う。影響を与えたいとか思う心が少ない自分だけど、家族や身内に対しては結構なんとか、困ったときは助けたい気持ちが強い。なわばりみたいな感じだろうか。遠くの誰かのためには何かしたいと思わないけど、家族や身内に対しては結構なんでもすると思う。だから自己満主義になったところで一人で生きたいわけじゃなくて、大事なものにリソースを割くというだけである。野生動物みたいなものである。より本能に近いところで生きている人間。

家族や身内に対しては結構気持ちが強いという意味では、わたしの人生は、子供が誕生してからが本番かなと思っている。子供が誕生して、本能的に(ホルモン的に)何かが誘発されたり、やるべきことが出てきたり、困り事が出てきたときに、自分の人生の本番が始まるのかなと思う。子供を誕生させられる身体の構造をしているのか不明だけども。もちろん子供なしで生きる人がいることも、それでいいと思うんだけども。

今後もやりたいことをやっていくまでである。種を植えるのだ。適当でもいい、大まかに自然の摂理にのっとりながら種をまくとと、食べ物が実ることがある。でも種をまかないと、実ることはない。それはどんな世界でも同じだ。一応種まきをしておくにこしたことはない。0と1の差は大きいから種をまく。まずは1をやる。世話はやったりやらなかったりでいい。とにかく種をまくんだ。

ここまで読んでくれた方で、わたしにおすすめの本や学問(ジャンル)を思いついた方がいたら、ぜひコメントで教えてください。経験則が多すぎるので、もう少し根拠や拠り所がほしいと思っているところです。

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