自然に生きたいと願いながらさつまいもを植えた休日
今日は仕事が休みだったので、さつまいもの苗を植えた。
通常は畝にマルチ(黒いビニール)をかけるけど、藁で代用してみた。
黒いビニールは何となく見た目が好きじゃないし、土の中にめり込んで取れなくなると嫌だからである。藁で本当に代用できるのかは分からんけども。
藁は直売所で買ってきた。さつまいも17本分で藁500円分くらいだった。藁は無料で手に入るものなので、買うのは少し不自然だけども。まぁいい。
さつまいもを植えたあとは、大根の種取り。
去年の9月頃に植えた宮重大根に花が咲き、そのまま放置したものだ。
種は買わなくたって手に入る。循環の中で種を手に入れられる。そのことを、家庭菜園をはじめるまで知らなかった。
たとえば種を買ってきて家庭菜園をしても「自然な暮らしだな」と思いがちだけど、開発された種を使うことは本当に自然なのか。
たとえば綺麗に区画わけされた田んぼで稲を育てることは、本当に自然なのか。曲線のほうが自然なんじゃないのか。
心の奥の根深いところに「自然であればあるほど良い。不自然は悪」という信条があるせいで、人間の都合が入り込みすぎてるものを見ると、「んっ」と力が入ってしまう。
あまりにも大自然だと、飲み込まれそうで怖くなるんだけど、
怖くない範囲だったら、自然に近い形でありたいなぁ。うーん、誰よりもわがままな願いかもしれない。怖くない範囲って都合良すぎだろ。
ご飯の中に無料のものが多めに登場すると嬉しい。これもやはり自然だと思えるからだ。
普通に生きてると、ご飯を食べるためにはお金が必要で、お金を得るために仕事をする必要がある。
文字通りご飯を食べるならご飯を作るのが自然なはずだ。
人類で分業するのがスタンダードになってしまったから、食糧を作らない人がたくさんいるけど、
自然に生きるとしたら、ご飯を食べるならご飯を作るのが普通だと思う。
ご飯を食べるためにご飯と関係のない人工的な仕事をするのは、あまりにも間接的で不自然に思える。
わたしだって自給自足はできていないし、お金も利用してるけど、少しでも自然に近づきたいんだ、という方向性は大事にしたい。
現状というよりは、向いてる方向の問題だと思ってる。思想上の仲間、こんにちは。思想上はおんなじだけど、実際には家庭菜園は全然できていないんだ〜という方、こんにちは。わたしはあなたのことを友達だと思って生きています。いつか本当の家庭菜園仲間になりましょう。
生きるために必要なことをしたい。それだけの切実な願い。
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