うわぁ〜って気持ち/適度なストレス
やることなすこと全てに実力不足を感じて「うわぁ〜」ってなる。でも「うわぁ〜」ってなりながらも、やるしかない!という気持ち。得意なことや慣れてるものばかりやってると、今度は飽きてくるし。
このツイートが流れてきて、激しく同意した。
まず「結果が出ないのは、やらないから」という部分。シンプルすぎるけど、そうだよね。妄想だけして、やりすらしないものが形になるわけない。「やってはいるけど量(時間)が少なすぎる」の場合も、形になるわけない。形になるより先に、死ぬ。当たり前のことなのに、たまに忘れる。なぜ形になってないのかといえば、やってないから。やれることをやれるだけやってないから。足りてないから。寿命の方が先にくるから。
運とか援助とかいろいろあるけど、それだって自分の行動が少なすぎる場合、何を掛けたってほぼ0。ほぼ0のものに何かを掛けても、ほぼ0。開花のしようがない。
次に「自分のお気持ちを優先して、ストレスがかかることから逃げてるから」の部分。これもよく分かるし、思い当たる。特に2022年頃までの自分は完全にこれに陥っていた。
まず土台として「不快な気分を感じるのは悪いことだ」「人間はつねにいい気分でいなければならない」と本気で信じ込んでいたので、「不快な気分を感じるのは、やってることが合ってないからだ」「不快を感じたなら、今やってることを辞めなきゃ」と思ってた。不快を許容できないというか。
不快な気分を感じることはイコール悪で、生き生きしてる大人は不快な気分なんて感じないものだと思ってた。日々100%いい気分で過ごしてるもんだと思ってた。
だから自分が不快な気持ちを感じることも許せなかったし、不機嫌そうな大人を見ると「信じられない!」と軽蔑していた。それだけで一発アウト、関わってはいけない認定を下していた気がする。
でも実際はみんなが日々100%いい気分で過ごしてるわけではないし、別に不快な気分を感じても許される。気づいた時はびっくりした。「不快な気分を感じてもいいのかよ!」「不機嫌な面のある人と付き合い続けてもいいのかよ!」という驚き。
それに気づいてから、気分や気持ちを頼りに「やる・やめる」を判断するのは適切じゃないな〜と思うようになった。
当たり前だろ!と思う人もいるだろう。不快な気分を感じちゃいけないなんて、あるわけないだろ!と思う人もいるだろう。
でもわたしは本当に知らなかった。マイナスの感情を感じても別にいいってこと。(マイナスの感情を詩や絵に昇華する場合のみ許されると思ってた。)
マイナスの感情を感じてもいいと分かったので、目的のためには不快な感情も受け取りながら過ごすようになっている。
「うわぁ〜やりますって言ったけど、できるか分からん〜」という気持ちを受け取る。受け取った上で、やれることをやってみる。できなかったら、まぁ仕方ない。そこはもう知らん。
以前だったら「うわぁ〜やりますって言ったけど、できるか分からん〜この気持ち嫌すぎるわ〜〜〜〜〜やっぱり断ろう。不快な気分になるし。ストレスになるし。ストレスは良くない。排除しなきゃいけない。うん、断るのが合理的な判断だ。っていうかわたしが言う前に察しておくれ。断るのも気まずいから、わたしに絶対に合うものしか誘わないでほしかったな」とか思ってた。
自分で勝手に納得して、生活の中からストレス(ストレッサー)を排除する方向に行ってた。「そもそも声をかけられること自体がミスでありエラーだ」とすら思ってた。自分中心で、人に期待しすぎだろ!自分では何もしてないのに!
ストレスフリーを推奨するような文化は、危険だ。ストレスを減らすべき人(激務とか)は減らせばいいけど、ストレスを増やした方がいい人まで「ストレスを減らさなきゃ」と思ってしまうのは、健康面に問題がないのに無菌状態で暮らすみたいで、あんまり良くない。無菌状態に慣れすぎて、感染症にかかりまくることになっちゃう。ストレスフリー推奨系のものは、使い方を間違えると、ふにゃふにゃの何もしない人になってしまう。
(ツイートを見て思い出したことを書いたので、ツイートの主旨と違う部分があるかもしれません。連想ゲームみたいな感じです。)
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