三増峠: 北条VS武田 激突の地 ♣山と歴史の連なる道♣(0007)
戦国時代“最大の山岳戦”ともいわれる、北条氏康と武田信玄の宿命の一大決戦です。
<趣意>
山林が国土の約7割を占める日本では、山も歴史との関係が深いものがあると思われます。そんな日本の歴史とも由縁のある山を、連なった歴史とともに辿っていきたいと思います。
「三増峠」
(みませとうげ)
場所: 神奈川県愛甲郡愛川町
アクセス:
小田急小田原線「本厚木」駅から路線バスで「三増」バス停、下車。
<端緒>
戦国大名で誰が一番好きか?と問われれば、私にとって筆頭は織田信長です。その次を挙げるとすれば北条早雲でしょうか。
ここで”好き”といっても、人間性が好きということではなく、あくまで”興味がある”という意味です。同時代に生きていれば、たぶん、織田信長のことは好きになれそうにありません。むしろ“嫌い”になるんじゃないかなと思っています。
それに対して、北条早雲については何だか人間的にも好きになれそうな気がしています。早雲の事績をみると、現代的な感覚からも好感が持てるようなことが多いように思えます。歴史的な興味・関心だけでなく人間性にも魅力を感じます。もちろん、あくまで戦国武将なので聖人君子のような人間ではなかったでしょうが。
その小田原・北条家(時代は早雲の孫である北条氏康の頃)と甲斐の武田信玄による、両家の行く末を賭したともいえる一戦が、この“三増峠の戦い”(三増合戦)といえるかもしれません。
その地、神奈川県愛川町の三増にはいまも激戦を物語る史跡や伝承が残っています。今回はその各所を回ってみました。
<概要>
三増は神奈川県北方に位置する。中津川の宮ヶ瀬湖と相模川の津久井湖の近く、丹沢山塊の東方で、三増峠などの丘陵とその下に広がる平野部がある。
1569年(永禄12年)10月に武田信玄率いる武田軍が相模に侵攻し北条軍と大規模な会戦に及んだ。永禄12年は織田信長による足利義昭を奉じての上洛の翌年。
毎年秋に「三増合戦まつり」も開催。
<登山コース>
県道65号線の「三増」バス停から出発です。
今回は、ここから西へ進み“三増合戦場碑”を経て、その北側高台にある”武田信玄の旗立松”を登り、さらにこの合戦で討たれた武田家重臣・浅利信種を祀った“浅利明神”を回りたいと思います。
「三増」バス停から北の三増交差点に西へ入る道があります。その名も”三増合戦みち”。この道を進み、右手の諏訪神社を通り過ぎます。このあたりが”三増”となります。基本的には平坦な平原状の地形ですが、北から3つの沢が通っているため、けっこうな起伏も部分的にはあります。
20分ほど歩くと、史跡“三増合戦場碑”が立つ場所に着きます。畑地の平らな土地のなかに大きな石碑が立っています。そばには東屋とベンチそして”三増峠の戦い”の説明案内板もあります。
この石碑のある平原状の一帯で北条と武田の両軍が激戦を繰り広げたのでしょうか。
合戦場碑をあとにしてふたたび西へ進みます。道の突き当りT字路の小高い地点に“首塚”があります。戦没者の首を葬ったことがその由来のようです。現在も供養塔が残されています。通を挟んで首塚の右斜め向かい側には“胴塚”の解説板があります。なお胴塚自体は企業の敷地内のようです。
“三増合戦みち”をそのまま進むと、やがて大きな下り坂となっていきます。その先をさらに進むと中津川へ下りて行くことになります。国土地理院の地形図で確認するとよく分かりますが、等高線がかなり密であり、急傾斜であることが一目瞭然です。
三増の地で会戦におよんだ両軍ですが、武田軍の別動隊が北条軍の側面を突いたため、北条軍は西の中津川の方へ押された模様です。中津川への急傾斜地を追われながら下っていくのですから、かなり不利で防御することもままならなかったのではないでしょうか。
首塚からは、武田信玄が陣地を築いて旗を立てたという丘陵“武田信玄の旗立松”へ向かいたいと思います。
首塚の地点から道を北へ進みます。右手に“愛川町農村環境改善センター”があります。やがて林の中の沢沿いの道となります。その先で道路はY字に分岐しており、右手の道へ入るとゴルフ場の前に出ます。
ゴルフ場の手前に道標があります。左右に通っている道が”関東ふれあいの道”です。左に行けば志田峠へ、右に行けばふたたび三増の平原部に出ます。
ゴルフ場のゲートの脇に”武田信玄の旗立松”を示す看板が立っています。ゴルフ場へ入っていきます。目指す旗立松がある丘陵はゴルフ場の敷地内になります。
ゴルフ場敷地内に旗立松への経路を示す看板が要所にありますので、それに従い進みます。あくまでゴルフ場の敷地内ですのゴルファーやコース内を走る自動車やカートへの注意が必要です。右手にクラブハウスが見えてくると、その手前の左側に旗立松につながる斜面につけられた階段があります。
登り始めて約10分ほどで丘の上、”武田信玄の旗立松”に到着です。松が植えられていますが、当時のものではありません(記念植樹されたもの?)。
南東方向に視界が開けており三増の平原部がよく見渡せます。伝承といえどもここに信玄が陣地を築いたのも十分に納得できます。北西部に三増峠がありますが、木立に遮られておりあまり見通せません。
旗立松の丘を下りてゴルフ場を出ます。ゲートにあった”関東ふれあいの道”の道標に記載の三増方面への道を東へ進みます。その先でY字に分岐していますが、左手の道に入ります(右手の道が”関東ふれあいの道”であり、そちらへ進むと”三増合戦場碑”に戻れます)。
さらに沢を渡りT字路を右に曲がります。ふたたび道は分岐し、左手の道へ入ります。分岐地点に”浅利明神”への指標が立っていますので分かりやすいです。
進む道の左手に茶畑が広がっており、その奥にある丘陵がさきほど登った旗立松があった高台になるのでしょうか。
この先も分岐がありますが、道なりに左側の方へ沿った道を進みます。
しばらく歩くと浅利明神の入口が左手に出てきます。三増合戦で北条方に討たれた武田家の武将・浅利信種を祀った祠が坂を上がった先にあります。
ふたたび浅利明神入口に戻り、道を進みます。薄暗い林の中を抜けると、一転開けて、「上三増」バス停の指標があります。県道65号線に合流します。65号線に出て右手(南側)の「上三増」バス停へ進みます(左手・北側へ行くと三増峠になります)。すぐにバス停への指標も出てきます。
やがて左手に三増公園への入口があり、そこが「上三増」バス停のあるロータリーとなっています。
今回はここがゴールです。
<行程表>
※標準的タイムによる目安(休憩含まず)
「三増」バス停→ 三増合戦場碑(20分)→ 首塚(10分)→ ゴルフ場への分岐(15分)→ ゴルフ場ゲート(5分)→ “武田信玄の旗立松”への階段登り口(10分)→ “武田信玄の旗立松”(10分)→ ゴルフ場ゲート(15分)→ 浅利明神への分岐(20分)→ 浅利明神(15分)→ 県道65号線合流地点(10分)→ 「上三増」バス停(5分)
コースタイム/ 2時間20分程度
標高差/ 約150m
<登山コースの補足>
小田急線「本厚木」駅から「三増」バス停行きのバスに乗る場合、駅から3分ほど歩いた場所にある「厚木バスセンター」から乗車します。
首塚から先に“三増合戦みち”を進むと中津川へ下りて行けます(馬渡橋に出ます)。中津川への途中にある愛川中学校の地には当時は田代城があり、三増合戦の舞台ともなりました(現地に解説板あり)。
“武田信玄の旗立松”はゴルフ場の敷地内にあります。
愛川町により「三増合戦史跡めぐり」コースの整備がされており、要所に史跡への指標があるので迷うことはあまりないかと思われます。
携帯電話の電波は十分に通じますので地図アプリ等も利用可能です。
今回、歩いたルートの一部は”関東ふれあいの道”とも重複します。
全体的に散策・ウォーキング感覚で歩けますので、トレッキングシューズなどではなく、スニーカーやウォーキングシューズなど舗装道路を歩きやすい靴でよいかと思われます。
<北条家と武田家の命運>
三増合戦の経過等の詳細についてはここで述べるまでもなく愛川町が作成した解説のパンフレットをご覧になっていただければと思われます(下記「参考リンク」にリンク先を貼付してあります)。
まったくもっての私見と空想にしかすぎませんが、この三増合戦が北条と武田の両家にどのような運命をもたらしたのかなーと考えたことがあります。
一言でいうと、両家のその後の存亡の分岐(の一つ)になった戦いであったといえるのではないでしょうか。
先の先を考えると、この合戦が織田信長のいわゆる”天下統一”に大きな影響を与えたことになるかもしれないと思えます。
まず、前提となりますが、もともとは甲斐の武田信玄、相模の北条氏康そして駿河の今川義元は「甲相駿三国同盟」を結んでいました。これは単なる”相互不可侵協定”にとどまらず、相互の軍事協力・共同防衛としてもある程度は機能していたようです。
しかし今川義元が織田信長により“桶狭間の戦い”で討ち死にしてから、同盟関係に亀裂が入っていきました。
結局、信玄は駿河への侵略を始めます(”三増峠の戦い”の前年頃から)。氏康は今川に加勢して信玄の駿河侵略に対抗しようとします。このため、信玄は氏康を牽制して今川への援助を断念させようと、相模にも攻撃を開始。信玄は自ら軍勢を率いて、ついには北条家の本拠地である小田原城をも包囲しました。
信玄はいったん小田原から退却し甲斐に帰国しようとしましたが、この際に起きたのが”三増峠の戦い”になります。
信玄と氏康による総大将同士の直接対決にはなりませんでしたが、実質的には双方の大勢力の正面対決による一大会戦となったといってもよいかと思われます。
結論だけを簡潔に言いますと、”三増峠の戦い”は武田家の勝利、北条家の敗北といえるかもしれません。その結果、信玄は北条家の加勢を気にせずに駿河支配を進め今川家を没落させます。一方、北条家も西方戦略を考慮する必要がなくなり、むしろ東方へ関東一円支配にふたたび注力できるようになりました。
”三増峠の戦い”により事実上、北条と武田の間で相互不可侵の暗黙の合意が形成されたといえるのではないでしょうか。
やがて、信玄の駿河支配はさらなる西方拡大にもつながり、徳川家康への侵攻そして反織田信長連合への参画に至ります。その後、三方ヶ原の戦い、信玄の死、長篠の合戦そして武田家の滅亡へと続きます。
もし”三増峠の戦い”で武田家が敗北したり重大なダメージを負っていれば、信玄は駿河支配をあきらめ、北方の上杉謙信との本格的対決に向かったかもしれません。その結果、信玄と武田家は信長と対立することなく(元々、武田家と織田家は姻戚関係を結び友好的だった)、武田家が織田信長により滅亡させられることもなかったかもしれません。
ひとつの合戦が短期的には自らの勢力を拡大させたとしても、大きな歴史の構造や流れのなかでは、それが自らの滅亡につながる遠因となったといえるのでしょうか。
もちろん、これは歴史の結果を知っている立場から言えるのであり、当時の人間がそんな先々まで見通せるわけもないでしょうが。
<付近の山>
仏果山・経ヶ岳
関東ふれあいの道
石老山
白山 ※桜の名所
<お食事処>
本厚木駅周辺には数多くの飲食店があります。
厚木はシロコロホルモンが有名です。(厚木観光なび/厚木市観光協会)
<日帰り温泉など>
湯花楽 厚木店 ※公式サイト
<売店等>
今回のルート上およびその近くにはコンビニ等はありません。
<私的な雑感>
今回めぐった史跡のあたりは起伏はあるものの、大まかには平原状の地形で、多くは畑や農家さんなどの住宅の間の道を歩いて行きます。そのため登山・トレッキングというよりも散策やウォーキングという趣です。
”三増峠の戦い”は一説には「戦国時代最大の山岳戦」とも言われることがあります。ただ、実際の主戦場は三増の平野部のようで、三増峠そのものやそのとなりの志田峠の山中で大きな戦闘が行われたわけではないようです。
もちろん、両軍とも山岳部(というよりも丘陵や高台という感じですが)に陣地や拠点を構えていますが。
そういうわけで、素人的には”山岳戦”といわれてもピンと来ない。専門家ではないので分からないのですが、山岳的な地形を利用しその地形ゆえの特性により戦闘が特徴づけられるということで、軍事的には”山岳戦”という区分になるのでしょうか。
登山をしていても”三増峠”という地名を聞くことはほとんどないのではないかと思われます。当初「なぜ、ここで合戦が行われたのだろうか?」という疑問がありました。
しかし、地図を広げてみると、この地が甲斐の武田と相模の北条にとってはほぼ境目の地であったことが分かります。東を相模川、西を中津川に挟まれた間隙の地形です。南の相模から北上すれば三増峠を越えると、現在の津久井湖あたりに出ます(ここにかつては津久井城という北条方の山城がありました)。さらに相模川に沿ってちょっと進めば現在の相模湖になります。ここにはいまも東西に甲州街道が走り西へ進めば甲斐に入ります。相模湖の西方である大月(現・山梨県大月市)には武田方の有力武将・小山田信茂の居城である岩殿城がありました。
※津久井湖と相模湖は相模川を利用したダム湖です。
したがってこの三増峠を越えるか越えないかの地点こそが、武田軍にとっては自領に逃げ切る最後のゲートともいえ、北条軍にとっては追撃の最後で絶好のチャンスであったのかもしれません。
北条軍としては、武田軍が三増に来たところで、北方の津久井城の軍勢、東側の相模川沿いの台地に布陣していた軍勢そして南から追撃に来た北条軍本隊により、武田軍を包囲・挟撃して殲滅する作戦だったのかもしれません。
もちろん、信玄もその危険性を十分理解していたのでしょう。その知謀知略により北条勢の体制が整う前に彼らの一部をおびき出して叩くことで、北条軍の包囲陣を崩して甲斐に帰国することに成功しました。
しかし、信玄の采配がちょっと狂っていたら北条軍の作戦が成功していたかもしれません(実際、南からの北条軍本隊は中津川を挟んで三増の南方の”荻野”という地まで差し掛かっていたようです)。このあたり、どのタイミングで仕掛けたり、引き際を見極めるか、信玄の面目躍如といったところでしょうか。
愛川町からは、”三増峠の戦い”に関するパンフレットやハイキングマップが提供されています。これらを手にしてゆっくりと歩きながら歴史探索ウォーキングを2時間半ほど楽しめました。
<山のお友>
●ブラックサンダー
いまや全国区となったチョコクッキー菓子。もちろん多くの方がすでにご存じかと思われます。登山の行動食にご利用の方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
最近では様々な種類のフレーバーがラインアップされています。個人的には”バナナ”と”ヘーゼルナッツ”が好みです。ヘーゼルナッツの香りのある風味、バナナのまったりとした甘味。登山でちょっと疲れた身体と口に合うような気がしています。
札幌の”白いブラックサンダー”や京都の”宇治抹茶ブラックサンダー”などの地域限定バージョンもあります。今後は、ご当地ポッキーやご当地カントリーマアムのような展開も増えそうな予感です。
[リンク先]
「ブラックサンダー・ファンサイト」(有楽製菓)
<備考>
三増峠の戦い (Wikipedia)
甲相駿三国同盟 (Wikipedia)
武田信玄 (Wikipedia)
北条氏康 (Wikipedia)
甲陽軍鑑 (Wikipedia)
北条五代記 (Wikipedia)
<参考リンク>
愛川町 歴史散策・街歩きハイキングマップ (愛川町)
「三増合戦」パンフレット/制作:愛川町教育委員会 (ポケットに愛川/愛川町)※PDF/4.13MB
関東ふれあいの道 (神奈川県)
神奈川中央交通バス ※公式サイト
山と高原地図「29.丹沢」 (昭文社)
書籍「甲陽軍鑑」 (筑摩書房) ※現代語訳
書籍「北条五代記」 (勉誠出版) ※現代語訳
<バックナンバー>
バックナンバーはnote内マガジン「山と歴史の連なる道」にまとめております。
0001 顔振峠と義経伝説
0002 柳生街道
0003 京都・愛宕山と明智越え
0004 石垣山一夜城と小田原城総構
0005 金剛山:楠木正成と千早城跡
0006 箱根・旧東海道と石畳の道
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(6) 不定期更新です。 隔月一回を目安に更新を予定しております。
(7) カバー写真と、今回ご紹介した山とは、関係はありません。
(8) 情報は掲載日時点の内容です。
(9) 登山道等の状況については、適宜、現地の観光協会、ビジターセンターや山小屋などの各関係機関にあらかじめご確認くださいますようお願いいたします。
(10) 今般の新型感染症の影響で各種施設等の利用については制限などが行われている可能性があります。ご利用の際には詳細について事前に各種施設等へご確認などをお願いいたします。
(2023/01/10 上町嵩広)