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みんな「苦手」に逃げすぎる、しかし尊重と協調は続く。

「苦手」は「嫌い」の婉曲で、多用は最近の言い回しに違いない。昔だと「嫌悪」「不可能」といったものは克服の対象であった。それを「苦手」と断り、遠ざけることができる社会になった。こういう世の中が生きやすいわけと、そうなった原因の仮説を述べるのがこのページの目的である。「苦手」は楽なのである。

かつて、できないことは努力でできるようにしなくてはならなかった。それが今では、「嫌なことはしなくていい」と断れるように転換した。わたしはこれの原因に2つの仮説を持っている。教育と有名人のせいではないか。
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教育から矯正が消えたのだと考えてみた。1980年代を境に、左利きの人はずいぶん増えたはずである。「左利きはタブー、隠すこと」から、「左利きの矯正こそ反自然、暴力」と捉えられるようになったためである。

みんなが同じ水準にならなくてはならず、それを求められた時代は過ぎた。みんなのために誰かががまんし、がんばるのはナンセンスだとして。だから左利きなどの少数派にも居場所が用意された。今は1人1人の有りようが尊重される。暴力についてもわたし達は排除を目指すことになった。
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もう1つは、隠し事のない人間が増えた可能性である。左利きを直さなくてもよくなったのとは連動するのだろうか。この点はわからない。他人にひた隠しにする(すべき)秘密を持たない人が増えたのではないか。

有名人のカミングアウトが話題になる。それが「逆に」かっこいいと評される。だから多くの人がまねをしているように見える。各人の隠し事には必要性もあったはずだが、弱点をさらけ出すことは善に転じた。事実をねじ曲げない態度にあこがれる人がいても無理はない。今後、自分の姿をオープンにする勇気は、もっとありふれたものになる。
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このように、人々は自分のマイナス部分をマイナスと思わなくて済むので、伏せる理由がなくなった。ありのままの生き方が称賛されるのだから。

隠し事のような、誰かの「問題」を種に人間関係から排除する圧力が減ったと信じたい。1人1人が尊重されて、つまり矯正が廃れ、隠し事からも解き放たれた人々は、「嫌なものは嫌」と口にできるようになったのである。

人との違いも、嫌いなことも、社会の方が受け取るべきものに変わった。こうして好き嫌いが悪いことではなくなった(ただし子供が食べ物の好き嫌いを発動するのは、今もけしからんこととみなされる)。差異や欠点をなくすのより、個人のあり方を追求する方の価値が認められたからである。
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「苦手」と口にすれば何でも免除される時代である。誰かの「苦手」をとがめない人々。もちろん自分についても。

選別と淘汰の時代が来れば(人が選別され淘汰が進む方向に向かったなら)、「苦手」を隠さざるをえない。だから、人々が「わたし、これ苦手」「苦手なので(半笑い)」と言っているうちは協調の美が保たれるに違いない。

【このページは、2020年8月の固定ノートでした】

ありがたいことです。目に留めてくださった あなたの心にも喜びを。