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死生観すら最低だ

命は死ぬ時に完成するのだ、ということをはじめて意識したのは、高校2年生の夏の終わりだった。同級生が死んだ。心底好きだったバイクの事故だった。誰もが泣いた。例に漏れず私も泣いた。善いひとだった。誰にとっても、寸分違わず、善いひとだった。彼は愛されていた。文化祭前の浮かれた空気に重く色がかかった。まだ風のあつい、夏服が肌に張り付く季節だった。すすり泣きと読経の中で思った。この光景が人生の評価だ。人生は死んで初めて完成する。彼の人生はどうだっただろう。卑屈な私には、酷く輝いて映った。辛かったろうな、痛かったろうな、苦しかったろうな、――もっと、いきたかったろうな。彼には許されていたはずだったのに。明るい未来が、しあわせな未来が、許されて然るべきだった。それでも、酷く羨ましくさえ思った。最低だ。私は最低だ。こんなに泣いてもらえる自信が、見送ってもらえる自信が、愛されていたと総括できる自信が、本当にひとつもなかった。いまも。例えば明日、死んでも、ニュースになんてならない。静かに位牌になって、多分少しの人が私のために泣く。家族に愛されているだけ幸せかもしれない。片手ほどの友達がいるだけで幸せかもしれない。五月蝿い全部綺麗事だ。どうしたって隣の芝生は青い。涙の重さなんて知るものか。私のために泣いてもらえるような人になれなかったのは私のせいだ。どうしたって全部私のせいだ。才能がなかった、努力が出来なかった、人と上手く関われもしない私のせいだ。それだけが私の人生だ。死んでなお悔しいのか。死んでなお惨めになるのか。生きたって死んだって惨めで虚しいなら、もうぜんぶ無かったことにしたいとさえ思う。どうしたいのか分からない。愛されたい。愛される方法を知りたい。

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