M.Sakaguchi

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最近の記事

今朝見た夢のメモ(2023/9/21)

 自宅の近くの物置小屋に多くの人が集まっている。  皆、一様に私よりも若い。10台か20代だろう。電源がないはずこの小屋に大型テレビが設置されており、誰かが桃太郎電鉄をプレイしている。17コマ進めるのだが、うまく目的に近づけるうろうろしている。変なカードを手に入れて困っている。  私はそのゲームの様子を見ながら、「大分駅のイラストは大きな板にぶつかっている様子を描いているのだ。おお痛!っていう」と説明したが、周りの人はだれもリアクションをしなかった。  外の雨の様子が気にな

    • 色に名前を付けることはできるし、できない

       塗料には必ず名前がついている。名前のない塗料は売りにくいから名前がついているのは当然のように思えるが、塗料の色という特徴にのみ注目したとしてもこの世界には無限に近い色があるのに、どうしてある特定の名前を付けることができるのかと一瞬不思議にも思うかもしれない。けれども、それほど難しい問題ではない。  突き詰めて考えてみれば、たとえば、赤色Rという名前の塗料があるとして、その塗料を作るには、材料AとBをある比率で混ぜ合わせて、Xという処理をある時間だけ行うことで再現ができると定

      • フィクションを読者が信用することについてのメモ

         以下のようなシンプルな物語を考えてみる。  登場人物は、AとB。  Aは男性で、Bは女性。  一 まず、AがBと出会う  二 次に、Aが死ぬ  三 最後にAがBと結婚する  この物語を小説(あるいは映画でも漫画でもアニメでも演劇でもよいが)にしたとして、その読んだ人や見た人(以下、読者ということにする)はそこに矛盾があることにすぐに気が付く。  どうしてBが死んでしまったはずのAと結婚できるのか、できるはずがないではないか、と。  しかし、それでもこの物語が作品として存

        • 映画『メッセージ』の感想

          あらすじはこんな感じ そもそも言語が記憶に先立つことがあり得るのか?  記憶や想像がまず最初にあり、それを表現しようとするときに用いるのが言語なのではないのか。それに、言語と非言語の両方によって成り立っているのが世界のなのだから、その世界の未来を言語だけで見ることなど不可能ではないか。  その転倒を描いているからSFとして新しいのだと言えないこともないし、SFなのだから何が起きたとしてもそれはその世界においては正しいと言ってしまえるから、この点についてはあまり深く考えても

        今朝見た夢のメモ(2023/9/21)

          映画『Barbie』の感想(アメリカ的なものはもはや倫理的に正しくないのか) 

          ※ネタばれあるからね。まだ観てない人は観てから読んでね。  ハリウッド映画において、その作品の中で二つのイデオロギーが対立するとき、ほとんどの場合はアメリカ的なものと非アメリカ的なものである。それは戦争映画では直接的に描かれ、スポーツ映画などでは暗喩的に描かれたりという表面的な違いはあれど、その性質に違いはない。  アメリカ的というのはつまり、自由と平等の民主主義であり、非アメリカ的とは共産主義や社会主義や専制君主制である。そしていつも、アメリカ的なものが正しく、非アメリカ

          映画『Barbie』の感想(アメリカ的なものはもはや倫理的に正しくないのか) 

          読めない文字と作られた記憶

          奈良市に行くことがあり、JR奈良駅近くを歩いていたら、何と読むのか分からない看板があった。 あとから写真を見返したら、手前にこのビルのテナントの一覧があり、「ツヅロ」だということが分かった。 「ツ」の1・2画目をつなげて、さらに3画目は直角に曲げるオリジナリティの高い字形。 ところで、この1枚目の写真をよく見ると、店のロゴマーク以上に見慣れない字があることに気づいた。 「着」の字が旧字体でもないクセ強オリジナル異体字になっている。 「目」の中がケイタイのアンテナのピクト

          読めない文字と作られた記憶

          草むらのエニーパーセント

           毎朝通勤途中に車で通る道、民家や倉庫が並ぶ中、なぜかそこだけ空き地になっているところがある。草は生え放題で、セイタカアワダチソウを思わせる植物が生い茂っている。  ある朝、私は、その草むらの中を歩く背広姿の男性を車の中から見かけた。なぜ、背広姿の男性が朝の通勤時間帯にそんなところを歩いているのかが理解できなかった。  空き地に生えるセイタカアワダチソウらしき植物は背が高い。男性の太ももぐらいまでの高さがある。足元にはマメ科を思わせる植物がそのツルを絡み合わせ繁茂している。男

          草むらのエニーパーセント

          夢のメモ(2023/08/16)

           盆休みの5日目、今朝見た夢は何か象徴的なものを感じたのでメモを残す。 夢の内容  自宅の寝室が広くなったような部屋。部屋は教室のようになっており、私はその部屋の入り口付近に座っている。机と椅子があるのかどうかは曖昧である。  ある女子生徒(と言っても成人のようにも見えるから、ここは大学かもしれない)が部屋が暑いといって、エアコンの操作パネルをいじっている。奥にあるエアコンもこのパネルで操作できることに私は驚く。エアコンの温度を何℃に設定するかで生徒の間で口論になる。私の

          夢のメモ(2023/08/16)

          ある日の人工知能との会話(形容詞と比較対象について)

          「大きい」という言葉は必ず比較級の意味を持つと思いますが、絶対的に大きいという、比較対象のない大きさは存在し得るのでしょうか?  「大きい」という言葉は、一般的に比較級の意味を持ちますが、文脈によっては比較対象がなくても存在しうる場合があります。たとえば、「地球は大きい」という文で比較対象は明示されていませんが、それでも「大きい」という言葉が使用されることがあります。しかし、より正確な表現をするためには、「地球は他の天体と比べて大きい」というように比較対象を明示する方が望ま

          ある日の人工知能との会話(形容詞と比較対象について)

          やっぱりお家が一番ねと野分の朝

           旅行から帰ってきて「ああ、やっぱりお家が一番ね」と感じる。あるいは一週間家を空けただけなのに、帰ってきてリビングのソファに腰掛けたときに、なんとも言えない違和感を抱く。限りなく一週間前と同じなのに、旅行に行ってきたという自分の中の心と記憶の違いだけで、今、自分が置かれてる状況が、先週自分が置かれていた状況とは違うものであるかのような、新鮮さを感じることができる。  もし、旅行が1ヶ月だったら。もっと、このリビングに対しての感覚は違ったものに感じられるだろうか。もし、旅行先

          やっぱりお家が一番ねと野分の朝

          最近感じたこと(民藝、人間、投球)

          中之島美術館「民藝」展 先日、中之島美術館で民藝展を見た。展示エリアのあとの、最後の部屋が現代作家の作品の売り場になっていて、どれもこれも高い値段だった。そんな値段であっても、その場の雰囲気や展示内容に影響されたのか多くの人(大半はおばサマやおねえサマ)が買っていた。  でも、そこに売られているのは、今見てきた「民藝」とは見た目はそっくりでも、実は真逆のものである。権威に裏付けされてない、生活の中に埋もれていた用品に美を見出したことに「民藝」の原初の意義があった。しかし、いま

          最近感じたこと(民藝、人間、投球)