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やっぱりお家が一番ねと野分の朝

 旅行から帰ってきて「ああ、やっぱりお家が一番ね」と感じる。あるいは一週間家を空けただけなのに、帰ってきてリビングのソファに腰掛けたときに、なんとも言えない違和感を抱く。限りなく一週間前と同じなのに、旅行に行ってきたという自分の中の心と記憶の違いだけで、今、自分が置かれてる状況が、先週自分が置かれていた状況とは違うものであるかのような、新鮮さを感じることができる。

 もし、旅行が1ヶ月だったら。もっと、このリビングに対しての感覚は違ったものに感じられるだろうか。もし、旅行先が火星だったら。このリビングのいつもの風景が、もっと新鮮で、もっと大切なものとして、しみじみと感じられるのだろうか。
 1年間の旅行であっても、宇宙旅行であっても、通常は私に身体的な大きい変化が発生するわけではない。目が3つに増えることもないし、嗅覚が100倍になることもないし、身長が縮んでソファに座れなくなることもない。つまりは外部から入ってくる情報が大きく変化しているわけではない。私の心の中だけの問題なのである。この状況をどのように捉えるかという捉え方の違いだけである。
 ならば、「私は今さっき人類初の水星旅行から帰ってきて、やっと自宅に戻って一息ついているとこだ。久しぶりに自宅で自分の湯呑で茶を飲んだ。リビングの窓から見える道路には水星に行く前と何ら変わらず、お向かいさんの家が見えて、プリウスとワゴンRが止まっている。時折道を通る車の音も速度も同じだ。でも、水星から帰ってきてこうやって眺めるいつもの風景は今までよりも、今までの中で最も私にとっても新鮮に感じられるものである」というふうに、自分を勝手に宇宙飛行士に仕立て上げて、宇宙飛行士としての自意識を生み出してしまえば、目の前のいつもの風景は、これ以上なく新鮮でありがたみがあり、愛おしいものに見えるのではないか。
 水星旅行でなくてもよい。「隣町で核戦争が起こったが、幸運にもこのあたりは被害もなく、風向きの関係で放射性物質も飛んできていない。いつもと同じ風景を今日も見られることがなんとありがたいことだろうか」と自分を思い込ませることはできないのだろうか。シチュエーションはなんだっていい。

 そんなことで自分を思い込ませようとしても、嘘の記憶を思い込ませようとしている自分がいま存在しているということを同時に意識してしまっている時点でそれは成功しないのではないかというふうにも考えられる。たしかにそうである。虚偽の記憶を作り出したという記憶があり、今、虚偽の記憶をなんとか本当の記憶であるかのように自分の中で刷り込んでいる、ということもまた認識しているのだから。
 その状況において、目の前の風景を新鮮に感じることなどできないのかもしれない。疑うことが全くできないほど、確かな記憶がすでにあるからこそ、自分は水星から帰ってきたという状況を認識した上で、今目の前の景色を認識しているのである。
 だとすれば、自分が本当に水星に行って帰ってきたとして、しかしあまりにも自分の能力は科学技術を超越した旅行で自分にはそれが信じられないのだとしたらどうだろうか。

 この夏休みに、私は台風のせいでどこにも行けそうにない。台風の過ぎ去った朝の、リビングから見える景色は昨日と同じなのになにか違って見えるような気もする。「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」、これはこれでまた違う現象なのだろうか。

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