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映画『Barbie』の感想(アメリカ的なものはもはや倫理的に正しくないのか) 

※ネタばれあるからね。まだ観てない人は観てから読んでね。

 ハリウッド映画において、その作品の中で二つのイデオロギーが対立するとき、ほとんどの場合はアメリカ的なものと非アメリカ的なものである。それは戦争映画では直接的に描かれ、スポーツ映画などでは暗喩的に描かれたりという表面的な違いはあれど、その性質に違いはない。
 アメリカ的というのはつまり、自由と平等の民主主義であり、非アメリカ的とは共産主義や社会主義や専制君主制である。そしていつも、アメリカ的なものが正しく、非アメリカ的なものが間違っており、映画の中のストーリーとしての紆余曲折を経た結果、アメリカ的なものが勝利し、その正しさが証明されるのである。

 ところが、『Barbie』における二つのイデオロギーの対立は、その一般的なハリウッド映画のフォーマットにフィットしていない。
 バービーの世界は女性中心であり、決して男女平等とは言えない。そして、その世界に「アメリカ的」なものが流入してくることで、男性中心で女性が従属的な関係にある世界へと変貌する。それがバービーの世界にとっての危機として描かれ、再び女性中心の世界へ戻すための苦心が、この映画の中心として描かれている。
 つまり、この映画の中においてはアメリカ的なものは、倫理的に正しくないもの、改善すべき状態にあるものとして描かれている。これは今のアメリカの現実に対して忠実であるとも言えるだろう。自由で平等な国としてのアメリカはもはや幻想でとなってしまったのである。幻想であるからこそそれは映画で主張するためのイデオロギーになりうるという逆説の証明でもあるのだが…。
 いずれにせよ、生き生きと女性が輝く世界としてのバービーの世界を破壊する「悪しきイデオロギー」として現代のアメリカの社会が捉えられている。

 ところが、これだけではない。対立の構図がさらに複雑であるところにこの映画の凄みがある。バービーがやってきた現実の世界におけるアメリカに住む人は、バービーの世界を肯定的に捉えていない。2020年代のアメリカにおいては、バービーの存在は、画一的な美や価値観を強制するファシズムであるとまで断言しているのである。おもちゃとしてのバービーが誕生し、そのバービーが自分たちの価値観の代表者であったはずの国なのに、である。
 この映画の観客は、理想の世界を乱され、男尊女卑になってしまったバービーの気持ちを共感しつつも、自分と同時代の人間の代表としての人間の言い分もまた正しいものとして理解をしつつ、かといって、男性の価値観に振り回されている女性の現実にも目を背けてはならないという倫理的な正しさにも従うべきではないかという複雑極まりない状況に放り込まれることになるのである。さらにいうならば、自分たちがずっと憧れてきたバービーそのものに対する見方も再考を強いられることになるのである。もはやこの映画の登場によって、自由主義と共産主義の単純で楽観的な過去のハリウッド映画の構図をはるか過去のものにしてしまったといえる。

 この映画においては、このようなイデオロギーの対立の側面以外にも、例えば「○○とはなぜ〇〇なのか」という人間にとっての根源的な問いに対して、ウィトゲンシュタインの言語ゲームやクリプキの様相論理的な分析哲学的な見方をすることも可能であるように思う(しかも、その問いに苦悩するのが私たち人間ではなく人形であるというところにまたもや複雑性とねじれがある)。
 もちろん、真正面からジェンダー論やフェミニズムとともに語ることもできる。その際にはマーゴット・ロビーのこれまでの出演作と演じてきた役の経歴がいかにこの作品とバービーの演技に説得力を与えているのかという部分も重要になってくるだろう。
 実に様々な側面からの解釈や批評が可能な、しっかりとした骨格と脚本を持った素晴らしい映画である。

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