映画「PLAN75」持続可能な開発目標から遠く離れた世界

 自分自身の生きている意味に疑問を持った時期もあったけれど、映画「PLAN75」を観て「生きる命」を肯定し、尊いと思える社会のひとりでありたい、と強く思いました。

 映画「PLAN75」の冒頭は、相模原の障害者施設で起きた事件を思い起こさせる場面から始まります。

この物語は、少子高齢化が進み、増える高齢者問題の対策として、75歳以上の人が自らの最期を選ぶ権利を認め、支援する制度が可決された日本が舞台です。その制度の名前を「PLAN75」としています。

 この制度が可決した世界で、75歳以上の方が、どのように感じて何を選択するのか、見たくないような、知りたくないような、複雑な思いを抱きながら、自分の課題として捉えるため観ました。

 2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標(SDGs:Sustainable Development Goals)を掲げている今の世界と「PLAN75」の世界は、距離を感じます。

 世界で多様性を謳いながら、一方で自己責任を求め、弱ければ切り捨てるような風潮も垣間見える世の中は「PLAN75」に近づいているのではないかと背筋が凍る思いです。

 物語の主人公である角谷ミチは、ホテル清掃で生計を立てている78歳の女性です。身寄りもありません。仕事中ある出来事がきっかけで職を失います。暮らしている団地も建て替えのため、新しく住む部屋も探さなくてはいけない状況になってしまい、ゆるやかに追い込まれていきます。

 住む家を探している最中、不動産会社から「生活保護枠なら用意ができる」と伝えられた時に、「もう少しがんばってみようと思う」と言ったミチ。それでも現実はままならいことばかり押し寄せます。
 働く意欲や向上心、動ける身体があっても、「高齢者」になると、受け入れる側の用意がないのです。

 登場人物はミチをはじめ、「おひとりさま」が多く、親子関係など複雑な感情面の表現は極力削ぎ落とされています。そのため家族で助け合うような展開はほぼありません。

 現実社会では、民間で多世代の支え合う仕組みを作っているところもあります。「PLAN75」を観た後に知った記事で、このような取り組みをしていることに安心感を覚えました。

 一方でこのような仕組みでも利用できない人もいるであろうことや、民間だけではできることが限られているのでは?と感じます。早い段階から国や自治体も一緒に取り組むような、高齢化社会の課題として捉えてもらえることを願います。

 少しずつ自分の居場所を奪われていくミチを見ていると、慎ましく丁寧に生きているだけでは許されないような、社会の圧力で息が詰まる思いがします。

 何に長けた能力がないと感じたことがある身としては、映画を見ていると追い込まれるような気持ちになりますが、その時は読書猿さんの記事を思い出し、読み返しています。

 「高齢者」に限った話ではないけれど、ラベルをつけて、まるでそれが役割のように扱われることが多くあるのではないか、と感じます。
そのひと自身を見ることがなく、役割だけで判断されてしまう。そのことで悩みや苦しみが生まれていることも多くあるのではないでしょうか。

 役割ではなく、人間として生きているということは、当たり前で尊いことなのだ、といつも心に留めておきたいです。

地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っている

外務省:SDGsとは?

その世界に向かうためにも。

 わたしは、どんなに情けない気持ちになって諦めそうになっても、「自分が自分の味方であること」を誓っています。映画の中でミチが選んだ道のように。

いのちについて、これから考えるときに参考にしたい書籍。

自分の味方でいるために、わたしを知り、整えるために続けていること


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