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児童文学が健全だと思いこんでいるお前をこの一冊で啓蒙してやる。


いつだったか、本のえらび方とか自分の読書遍歴についての記事を挙げたんですけどね。



一言で言うと、幼少期に読んだ本がだいたいアウトロー小説だったって話なんですが、それを読んだ原ちゃん(リアル友人)から心配されたんですよ。


今さらだけど君の情操教育観が心配だよ

「君、”ハリーポッター”とか”青い鳥文庫”とか、小中学生が読みそうな本は読んでこなかったの?」


って。


「児童文学ってこと?”ズッコケ三人組”とかはよく読んでたよ」

と言ったら、原ちゃんは安心した様子で

「あ、そうなの。いやー良かった、教育に悪いモノばっか摂取してきたんじゃないかと心配したんだよ

と言って、それで会話は終わったんですが。



終わったあとしばらくして、違和感を感じたんですよ。
反発を覚えたというわけではないにせよ、なんとも言いがたい違和感を。




待て。ちょっと待て。


なんで原ちゃんは、「児童文学も読んでた」の一言で安心したんだ。

もしかして、”児童文学=健全”ってアタマから決めこんじゃいないか。

まさかとは思うが、児童文学では教育上好ましくないファクターが排除されているとでも思ってんのか。

原ちゃんだけでなく、世間一般でもそういう風に思われてんのか。




断言する。

思い違いもいいところだ。





決めた。

今回は、”児童文学=健全”とかいう幻想をぶち殺す一冊について語り倒す。






児童文学が健全だと思いこんでいるお前らを、この一冊で啓蒙してやる。



― ― ―


まずはじめに、著者について。
何を隠そうこの人は、先にも触れた”ズッコケ三人組”シリーズの生みの親である那須正幹先生です。

読んだことなくてもタイトルは誰でも知ってる、児童文学オブザ児童文学ですね。その著者である那須先生は、言うまでもなく児童文学界の第一人者です。
そんなビッグネームが書いた児童文学なら、さぞかし児童の教育にふさわしい健全な内容だと思うでしょう?それが幻想だって言うんだよ!!!!!(演台をバーン!!!と叩きつつ)


とりあえずはね、ちょっと長いけど次のあらすじを読んでください。反論はその後で聞きます。


昭和五十年代末、大阪。

広島の不良中学生グループ”友和会”に属していたが、会の資金十万円を持ち逃げしたうえ、単身で大阪に家出してきた中学二年生”島田太一”。
身寄りも土地勘もない大阪に来て早々、太一は刑事と思しき男に財布と生徒手帳を取り上げられ、その身も補導されかかる。
すんでの所で刑事の手を逃れた太一は、無銭飲食を決め込む腹づもりで近くのラーメン屋に入る。その直後、太一の横にさっきの刑事と思しき男が座り、ラーメンを注文した。男は太一の金を巻き上げようとしただけのニセ刑事だったのだ。
金を返せと息巻く太一に、男は返すと言いつつも不敵に笑う。

「わいの見当では、あれがお前の全財産だったはずや。(中略)ただ食いをするということか。おまえが、どないなやり方でただ食いするか、見てみたいもんや」
「おまえも、いなかでは、そうとうの悪たれみたいやったけど、ここはなにわの街や。いなかのやり方が、とおるもんかどうか・・・」

男の挑発に乗せられた太一は、ラーメンの器にタバコの吸い差しを入れて店主に因縁をつける。気弱そうな店主のうろたえぶりに成功を確信したのも束の間、介抱する素振りで連れられた店の裏で、太一は芝居をやめた店主と従業員にボコボコにシバかれる。

ひとしきりシバかれた後、路地裏に打ち捨てられた太一の元に、再びあの男が現れる。
傷だらけの太一を自分の家(ヤサ)に連れ込んだ男は、集まってきた仲間に即座に切り出した。

「わいが見たとこ、十万はかたい。うまいこともちかけりゃあ、五十万仕事や。ただし、ヤー公がでしゃばるまえに、かたつけんとあかん。スリルとスピードの一発勝負や」

男の通り名は”アンポ(安保)”。大小様々のトラブルをネタにしては煙のようにカネを巻き上げる、凄腕の詐欺師だった。今回は太一の怪我をネタにして、ラーメン屋の親父をカタにハメる絵図を描くらしい。

「どや、ボン?わしらの仕事をてつどうてほしいんやが」

不良少年、島田太一。
右も左も分からぬナニワで、詐欺師グループの仲間入り。


一生モノの”社会勉強”が、はじまった。


どうっすかこのドライヴ感!!冒頭からキレッキレでしょう!?
いやー児童どころか大人が読んでも面白そうな書き出しだぜ、さすがは児童文学大御所の那須先生!!!

いや児童文学って何だよ(哲学)。



実際ね、面白そうな出だしだと思うんですよ。事実面白いんですけど。

ただ今んところの議題は面白そうか否かではなく、児童向けに思えるかどうかって話なんでね。
その方向で言わせてもらうと、どう考えても児童向けには思えねえ。というか、ツッコミどころが多すぎる。

だいたい中学生不良グループの名前が”友和会”って時点でヤバい。何だよ友和会って、完全にヤクザのネーミングセンスじゃねえか。流石は昭和末期、世紀末にも程がある。

で、その友和会からカネをくすねてきた太一君を待ち受けるのは、いきなりのニセ刑事。バイオレンス。そしてアンポによる治療費詐欺の片棒担ぎ。
児童向けとは真逆の暗黒ファクターが百花繚乱。冒頭20ページそこらでもう数え役満です。だから児童文学って何だよ(頭痛)。


かくして、アンポ率いる詐欺師グループの一員となった太一君。
その後は政界入りを目指す小金持ちにニセの総理大臣をぶつけて政治資金をかすめ取るだの幽霊役をホテルに仕込んで除霊詐欺をするつもりがマジモンの幽霊に出くわす(しかもその幽霊までペテンにかける)だの紀州ヤクザの組長に骨董品詐欺を仕掛けるだの、色々とエンジョイ&エキサイティングな仕事(ヤマ)を踏んでいくわけですが。


その辺の本筋もアッパーで面白いけど、それと同じくらい面白くてかつ重要なのがキャラクター。
具体的に言うと、詐欺師グループを構成する労働者たちとそのブレーンたるアンポ。こいつらが実にリアリティ豊かに描かれているのが良いんです。

まずは労働者たち。こいつらが揃いも揃ってアクが強い。劇中で描写されているだけで十数人はいるんですが、一例として何人か挙げときます。


①ドカタのあんちゃん
②スナックのママ
③ゲイバーのホステス
④キャバのポン引き
⑤アル中の爺さん
⑥売春婦
⑦代書屋(通称。おそらくニセ行政書士)
モルヒネの横流しで免許剥奪された医者

梁山泊かよ。


当然善人であろうはずもないコイツらですが、かと言って根っからの悪人というわけでもありません。
太一を自分たちの仲間だと受け入れる情も持ち合わせていれば、アンポの詐欺に加担するのも生活の糧を手に入れるために、そしておそらくは、非日常のスリルを味わいたいがためにやっているまでの事。

各人各様の事情があってアングラな世界に堕ちたものの、誰もがそれを卑下することも忌避することもありません。
どんな状況下でも人生を謳歌しようというタフさと、家出少年の太一を子ども扱いせず(←後述しますがここは重要です)、同じはぐれ者として認め、助け合っていこうという優しいリスペクトが行間から伝わってきます。
総じて、いい意味で人間臭いんです。


そしてアンポ。東大出のウワサもある切れ者ながら詐欺師の道を歩んだ変わり者ですが、その行動理念もまた面白い。
ズバリ、こいつは生粋の共産主義者です。共産主義者が詐欺師ってなんだよとも思うでしょうが、その根底には


「(前略)こりゃ、革命的階級闘争の一部やで。もたざる者が、もてる者から金銭をとりもどす。いうてみれば、資本家が労働者階級から搾取したものを、還元しとるだけや」


という、アンポなりの理念があります。その理念に基づいてアンポは日夜詐欺をはたらき、日曜には件の労働者たちを自室に集めて共産主義の講義を行っているわけです。


余談ですが、この共産主義講義のくだりがめちゃくちゃカオスで面白い。
レーニンは源平合戦に負けてロシアに落ち延びた平清盛の子孫だとか豊臣秀吉の千成り瓢箪は労働者団結の象徴で、遺言は「万国の労働者よ団結せよ」だったとかいう大ボラを平然とアンポがかまし、そのホラ吹きを労働者たちが真に受けて大いに関心するという、作中屈指の爆笑ポイントです。
子どもの頃は何のことやらわからずに読み進めてましたが、大人になって再読したらハラ抱えて笑い転げました。いやだから児童文学って何だよ!!?




さて、ここらで一つ盛大なネタバレをかまさせてもらいます。
たいがいの人が未読であろう本にネタバレかましたくはありません。ありませんが、これに触れないと今回のテーマを語り尽くしたことにはならんのです。


物語終盤、アンポと太一は紀州和歌山のヤクザを的にかけようと骨董品詐欺を仕掛けますが、失敗します。トントン拍子でうまく行ったかと思いきや、ひょんな事から正体がバレちまったんですね。

相手はヤクザ、当然タダで済ますはずはありません。アンポと太一は(最終的には助かるものの)殺される前提でヤキを入れられるんですが、そのヤキ入れの描写がまた凄絶なんです。
原文を引用しすぎるのは色々とよろしくないんでしょうが、これだけは読んでもらわないとその凄さが伝わらんのです。どうかご勘弁を。


「ええか、これが極道のヤキ入れや!」
男は、さけびざま、角材を水平にふった。角材はアンポの胸のあたりに激突した。
アンポの口からすさまじい悲鳴があがった。
「お、しもうた。あばら骨を折ってしもうた。もちっと、下をねろうたつもりやったがの。このおっさん、背がひくすぎるわ」
わらいながら、男が第二撃をくわえた。これは、太ももあたりにぶっつかり、材木が”く”の字にまがる。
「や、やめてくれ――」
アンポが、泣き声をあげた。
「かんにんや――なあ、兄貴――、もう、かんにんしてえな」
はれあがったアンポのほおに涙がこぼれ、血をしたたらせた口のはしから、よだれが糸をひいていた。
「ほう、まだ口がきけるんか。たいしたもんよ。これは、どうよ」
おれた角材を、垂直に胃のあたりにつっこむ。アンポがおびただしい汚物をはいた。
「あほっ、やめんかい」
いま一人の男が、佐々木を押しのけた。
「なにも胴体をいためることないやないか」
男は、アンポの右腕をつかむと、むぞうさに手の指をぎゃくにおりまげる。
倉庫にけたたましい絶叫がひびきわたる。



児童文学って、何かね?(北の国から)



いやー自分で紹介してて何ですけどね、これはエグい。マジでエグい。

何がエグいって、容赦ない暴力シーンを子どもでもわかる平易な言葉で描写している事なんですよ。
生命や尊厳を平然と踏みにじる暴力や、それを躊躇わずに行使するヤクザの恐ろしさが、平易な言葉で描写されているからこそ生々しいまでのリアリティで迫ってくる。言うなれば児童版アウトレイジ。児童版とはいうけど、大人が読んでも普通に戦慄するレベル。

私自身、小学生の時分に大人向けのアウトロー小説を読んできた経験がありますが、そういう小説の拷問シーンよりこっちの方が遥かに記憶に焼きついています。
だって、子どもにもわかりやすいんですもん、何たって。大人になった今となっては、暴力シーンそれ自体よりも、子どもにもその恐ろしさが伝わるように腐心した那須先生の姿勢こそが容赦ないと思う。




ただ、この”容赦のなさ”こそが今回の話のポイントでして。


これまで紹介してきた内容をふり返ってもらえればわかる通り、そもそもこの物語は全編子どもへの容赦がありません。
世間が考えるような、児童を護る予防線としての”健全さ”からはかけ離れたファクターばかりで構成されています。

だけれども、文句なく面白い。露悪的なファクターから来る下世話な面白さなどではなく、単純にストーリーが面白い。
そしてそれ以上に強調したいのは、キャラクター達のたくましさや朗らかさから受けるさわやかな感銘です。タフでネアカな労働者たちの生き様は、直接語られはしないけれど作品全体に通底する、無言の人間讃歌に思えます。



説教臭さを一切持たず、それでいて人間讃歌を無言のうちに子どもに教えるこの物語は、やはり”児童文学”なんです。



逆説的ですが、この面白さや感銘は那須先生が子どもを子どもとして扱っていないからこその産物だと思うんですよ。
子どもは庇護すべき社会的弱者であるとか、そういうパターナリズム的な思想を過度に持たないように心がけている。一個の人格を持った存在という意味では、大人も子どもも完全な同列に捉え、かつ尊重しているように感じられます。


大人の子どもに対する役割や道義的な責任を重々わきまえた上で、読者である子ども――未経験・未成熟ではあるが一個の人格を持った存在――に面白い物語を提供する。

そのためには、読者をヘンに子ども扱いしてはならない。
成長途上の子どもを護るために大人が張り巡らす予防線、つまり大人の考える”健全”さが、子どもが享受してもいいレベルの面白さまでも妨げていないか。それをギリギリまで見極めたうえで、作品を提供しなければならない。


那須先生のそういう姿勢が、上記のような”容赦のなさ”として、また、読後十数年経っても記憶に焼きつくような”子どもにも大人にも面白い児童文学”として表れていると個人的には思うのです。

※余談ながら、ズッコケ三人組シリーズの一つ”ズッコケ文化祭事件”でも、作中のキャラクターがこの辺りについて激論を交わしていたのを書きながら思い出しました。
作中でそういう議論をさせる辺りも、那須先生がどれだけ児童文学作家として”健全さ”と面白さのバランスを考え抜いてきたかを物語っていると思います。


― ― ―


さて、”児童文学≠健全”という式を証明するために語り倒したこの話も、そろそろ〆と致します。


お子さんのいらっしゃる方にとって、自分の子どもが教育上好ましくない(と思われる)コンテンツに触れるのは心配事の一つかと思います。
ただ、護るべきところは護るとして、その一方で子どもを信頼することも同じくらいには大事だと思うのです。


いつの時代も、子どもはタフで聡明ですから。
同じように子どもだった、そして今は大人である我々が考えているよりも、きっと、ずっと。





まあ、そんな事言っときながら。






万一PTAに噛みつかれたら、即刻この記事削除して逃げる腹づもりなんですけどね私ァ(西成行きのキップを握りしめつつ)。



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