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創作の営みとネガティブ・ケイパビリティ①

「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉が生まれたのは、文学の領域からである。

後に精神医学やカウンセリングなどに応用される言葉が、芸術の領域から出発しているのは興味深くもあり、また当然のような気もする。

19世紀の詩人ジョン・キーツが、兄弟に宛てた手紙のなかで用いたのが最初で、詩人となるのには必須の能力として記述された。

それは特に文学において偉大な仕事を達成する人間を形成する特質、シェイクスピアがあれほど厖大に所有していた特質、それが何かであるということだーーぼくは「消極的能力(ネガティヴ・ケイパビリティ)」のことを言っているのだが、つまり人が不確実さとか不可解さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めていらいらすることが少しもなくていられる状態のことだーー(後略) (ジョン・キーツ/田村英之助 訳 『詩人の手紙』 冨山房百科文庫)

「ネガティブ・ケイパビリティ」の概要や歴史を知るには、帚木蓬生氏の著作がすでに存在している。しかし、その論旨には曖昧な点もあるように思うので、僕なりに今一度考えてみたい。

キーツが「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念に辿り着くにあたり、特に芸術家がそれを必要とする理由として、そもそも詩や詩人とはどうあらねばならないかということを、手紙のなかで繰り返しのべている。

詩人というものはこの世に存在するもののなかで最も非詩的なものだ、というのは詩人は個体性をもたないからだーー詩人は絶えず他の存在の中に入って、それを充たしているのだー太陽、月、海、それに衝動の動物である男と女は詩的であり、不変の特質を身につけているーー詩人にはそれが何もない、個体性がないのだーー詩人は明らかに神のあらゆる創造物のなかで最も非詩的なものだ。(同上)

キーツの叙述は兄弟や友人、恋人へ宛てた手紙で、その時々の身辺報告などと混じって断片的に書かれている。似たような発言を繰り返していることもあり、また私信のせいか短い記述が多いので、意味が分かりにくいこともしばしばある。まずキーツの言葉を、もう少し丁寧に読み解く必要がある。

この「個体性(アイデンティティ)を持たない」というのはどう言うことだろうか?

上記の記述に従えば、個体性を持っているのは、「太陽や月、海、男と女」であるという。「変えられない属性」を持つことが「詩的」であるということであり、すなわちこの文脈で言うところの「個体性」ということになる。

「太陽や月、海、男と女」とは、現実世界に存在する物や人間全般のことと解釈すればいいだろう。

それらが持つ「変えられない属性」とはなにか。

自然物はどこまでいってもそれそのものであり、何者にも変わることはない。石が水になることはなく、男が女に変ずることはない。見ようや解釈によっては神や仏になるかもしれず、比喩的になにか別のものに仮託されることはあっても、それそのものの本質は、決して変わりはしない。

それぞれがもって生まれた宿命があり、それから逃れられない。

人間がどれほど運命に流され、時に成功して栄華を誇り、時に零落して悲劇に見舞われても、太陽や月は人間の営みなどと無関係に、地上を変わらず照らし続ける。海は揺れ、時には無慈悲に全てを飲み込む。

人間はどうだろうか。能力の限界、身分の制約、時代の情勢に宿命的に行動が制限される。

男や女である限り、出来ることと出来ないことがある。人それぞれの身体的特徴により、こなせる仕事に制約がある。身分の違いによる制約もあるだろう。

また、精神面でもそれぞれ固有の宿命を持っている。その時代ごとに横たわる共通のメンタリティが古今東西存在し、実際に生きる人々はその制約からは免れ得ない。

人は誰でも、何がしかの国、組織、職業、宗教、文化の中で生きており、ものの考え方はそれらの風土のバイアスを受けている。

所属する枠組みや時代の中には必ず、最大公約数的にぼんやりと統一され共有された、一定の価値基準やルールがあるものだ。

人間の命についてすら、役人にとっては人口の統計データの一要素になるかもしれず、医師にとっては肉体の活動の有無を示すものに過ぎないかもしれない。

商売人にとっては利益を最大化する要領を持つことが優先され、聖職者にとっては神なるものの教えを背景とした倫理観が、あらゆる判断の基準となる。

ひどく単純化した言い方をしたが、大雑把に言えばそういうことだ。

そのように「一般的」に共有された枠組みのなかの一員として存在し、生活や思考の因って立つ基盤を明確に持っていること。

それがここで言う「個体性」であり、「変えられない属性」と言えるのではなかろうか。

そんな人々が、何らかの形で宿命に立ち向かう意思をもってそれらに挑み、流れに翻弄されることがある。

こうした変えられない宿命を背負ったものが、何かとぶつかり合う様がドラマとなり、僕たちの情緒をゆさぶる。

心を動かす活躍をするからこそ、それらは「詩的」なのだと解釈してみるのはどうだろう。

「詩的」なものはあくまで物語に登場するもの達であり、描かれるべき対象のものなのである。

それではそんな中にあって、「詩人」が「非詩的」というのはどういうことだろうか。

キーツは手紙のなかで、次のように語る。

読者に対して何か明らさまな意図をもつ詩はぼくたちは大嫌いだーーこちらが同意しないとズボンのポケットに手をいれて不機嫌になるような詩は。
詩は偉大でしかも押しつけがましくないものでなければならない。つまり人の魂に入ってきて、ただ詩であるということだけで魂を驚かすのではなくて、主題で驚かすのでなくてはならない。ーー隠れたところに咲いている花はなんと美しいことか!大通りにむらがって「私はスミレです、誉めてください!私はサクラソウです、可愛がって下さい!」などと叫んだら、花の美しさはなんと失われてしまうことか。

キーツが詩というものをどう捉えているかを表した文章だが、先にこちらをもう少し解きほぐしてみたい。

「読者に対して何か明らさまな意図を持つ詩」というのは割合分かりやすいと思う。

作者がむやみにみずからの個体性に基づいた主観や判断を交えて、対象物を解釈してしまったり、恣意的に切り取ってしまうようなことを、キーツは厳に戒め、否定している。そのような作品はもはや偉大なものとはなり得ない、ということをキーツは言いたいのである。

ではどのように詩を表現すべきかといえば、それは「押しつけがましくない」「主題で驚かす」ようなものであるべきだと主張する。

1818年2月27日、友人のジョン・テイラー宛の手紙で、キーツはこうも記している。

詩における美の感触は中途半端であるべきではない
心象が生起し、進行し、没していくその過程は、読者にとって、太陽のように自然でなければなりません

詩が読者に、感想や印象を強制するのではなく、描く主題を読むことでごく自然に、読者の中で偉大な感動がわき上がるように書かれていなければならない、ということである。

そしてその原則から、キーツは次のような詩作の原則に辿り着く。

詩というものが、樹に葉が生えるのと同じくらい自然に生まれてくるのでなければ、全然生まれてこない方がましだという原則です。

詩人が、何かの意図や目的をもって、描く対象物を選択、解釈し、限定的なメッセージを発するとき、その作品もまた、限定的な力しか持たない、ということをキーツはいいたいのではなかろうか。

それよりも、自然に存在するものをあるがままにみつめ、そこから自然とわき上がる感興や暗示をつかみとって表現するべきだと、キーツは繰り返し主張している。

この場合の自然のあるがまま、とはいったいどう言うことだろう。

例えばここに一本の薔薇があるとする。

薔薇には色鮮やかな花弁があり、芳しい香りを放つ。しかしその一方で、手に取るものを傷つける鋭い刺も持っている。

もしこの薔薇から、都合よく花弁と香りだけを残したらどうなるか。それは確かに見た目の美しさと香りという、一見手に取るものに心地よいものとなるかもしれない。

しかし、刺がなくなってしまえば、それはもう薔薇そのものではなくなってしまい、恣意的に誰かにとって都合よく改造された別物になってしまう。

薔薇の色鮮やかな花弁と香り、そして刺、それら全てが総合的に揃っているとき、はじめて薔薇の「美しさ」は完成をみる。

自然のあるがままをみるとは、こういうことを言うのではないだろうか。

都合よく一部分を切り取ってしまったものは、もはやあるがままとは言えず、そのようなものをどれほど言葉(絵でも音楽でも構わないが)で表現しても、それは偉大な表現とはなりえない。

本当に人を心から感動させるものは、あるがままのものを観察し、そこに詩人の想像力を加えて表現しなければ生まれてこないということだ。

そして本当に偉大な詩というものは、そこで正しくあるがままを見ることができていれば、作者の意思や意図は消え、自然とイマジネーションとしてわき出てくるものだとキーツは言う。

詩人が自我をもたないとすれば、そしてぼくがその詩人なのだとすれば、それはもはやぼくが詩を書いているのではないと言ってもどこに不思議があるだろうか。(中略)ぼくが言うどの一言でも、ぼくの生まれつきの個体性から生じた意見として認めうるものではないということは、まさに事実なのだーーぼくに本性がないのだから、そういうことはありうるはずがないのだ。部屋の中に人々と一緒に居る時、自分の頭が創り出すものについて考えることをぼくがしないでいるならば、僕自身が自分自身にもどってくることはなくて、部屋に居るすべての人の個体性がぼくに迫ってくる、その結果ぼくはたちまちに消滅する(後略)(1818年10月27日 リチャード・ウッドハウス宛)

そのためには、作者(詩人)は、余計な個体性を排除し、無垢な状態でいったん対象物を観察し、受けとめなければならない。

いわば詩人というものは、彼ら自身が詩的な存在なのではなく、「詩的」なものを求めて掴みとり、それらを歌う人のことを言うのである。

個体性は、しばしばその人の眼を曇らせる。人それぞれが生来もつ思考の傾向があり、さらには生まれ育った環境や、時代の影響を受けており、自ずと知らず知らずのうちにものの見方にバイアスがかかっているものである。しかし詩人は、そうしたものを排除するよう努力しなければならない。詩人が詩作をするのには、まったく邪魔でしかないのである。

すべて人は自分の思考をもっているが、その思考だけに耽って、それを他人に見せびらかそうとする時には、贋金を作ってみずからを欺いているのだ

キーツの記述は、この事を語っていると思われる。

この「無垢な心で、対象物をありのまま総合的に受けとめる」ことこそが、「ネガティブ・ケイパビリティ」の真骨頂なのである。

「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を知らずとも、その本質を知り、実践している作家は存在する。

直木賞作家の長部日出雄はかつて先輩作家の吉行淳之介から、「作家はもの自体を描かなければいけないんだよ」と教わったという。

夏目漱石が晩年に到達した「即天去私」もその概念に近いものがあり、川端康成は「末期の眼」こそがあらゆる芸術の極意だと書いた。

現代作家では村上春樹氏が、非常に高いレベルでこの能力を持っていると思われる。

僕は小説家ですので、人を観察するのが仕事です。細かく観察し、とりあえず簡単にプロセスはしますが、判断はしません。判断は本当にそれが必要になるときまで保留しておきます。(村上春樹/「職業としての小説家」)

それぞれの作家が、彼らなりに自分の言葉で、「ネガティブ・ケイパビリティ」について語っているわけである。

ところで、対象の本質にせまるというのは、とても難しい。先述のとおり、もともと人はその個体性故に、物事の観察にバイアスがかかってしまうからである。

帚木蓬生氏の指摘にもあるとおり、人間の脳はそもそも、曖昧でよくわからないものを抱え込むのが苦手であって、性急にでも何らかの形で「分かる」状態になりたがるものである。

物事の本質はしばしば見えにくいものであって、とりあえずそれに形を与えるものとして、「常識」とか「固定観念」といた、大雑把な共通認識を僕たちは共有している。

作家(詩人)は、いわばその本能に逆らわなければならない。

常識や固定観念、便利で耳に心地良いが、本質とは乖離している言葉などに惑わされず、本質を衝くものの見方を貫き、その能力を磨かなければならない。

彼らはどうやってその能力を手にしているのか。どのようにして、「不確実で」「曖昧な」ものの前にたって、居心地の悪さに耐えていられるのだろうか。

次回はその辺を考えてみたい。


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