【歴史コラム④】滋賀県

休日恒例?の歴史コラム。

本当は戦国最大の謎本能寺の変について書こうと思ったけど、そんな有名なもの書いても記事にはならないし、面白みないよね。

ってことで滋賀県についてです。別に私は滋賀出身でもありません。私は大阪生まれ大阪育ちです。けど滋賀県は幼き頃からずっと通ってました。

というのは父方のお祖父さんが亡くなった際、坊さんに来てもって、「お布施いくらでいいですか?」と聞いて「いくらでもいいです」と言われたのでお金渡したら「たったこれだけか」と文句言われたそうで、怒ったお婆さんがもう帰ってくれと坊さん追い出しお祖父さん弔ってくれるところ探した際、ある宗教団体に出会い、加入してそこに埋葬することになりました。その教団の本部があるのが滋賀県和邇。で毎年聖地が開く時期に墓参りしていたんです。うちは元々禅宗だったそうですが、乗り換えてたそうです。お祖父さんは私が産まれる前に亡くなったので両親から聞いた話です。母親がお祖母さんの後をついで教団に入ってたんです。だからうちに仏壇があって、毎日母親がお経あげてました。私も教団のイベントごとに何回か駆り出されてましたが、私は大学時代宗教の勉強をして、宗教というものに違和感がありました。でお祖母さんも亡くなったし、母親も足の手術したので、墓引き上げるって話になり、墓引き上げました。私に相談があったのですが、私は三男なんですけどね。次兄は忙しかったので事後報告。長兄は無関心でした。仏壇引き継ぐなら誰かが教団にって話で私がって言われてたんです。「別にそれはいいけど、先祖供養は教団じゃなくてもできるんちゃうん」って言って墓引き揚げを提案しました。墓引き上げてからは滋賀に行く機会減ったのですが、今はご当地キャラ博によく行ってます。ご存知ひこにゃんです。ご当地キャラは私の好きなものの一つです。所謂ゆるキャラですね。ご当地の歴史、名産等を知る事もできるし、何よりご当地が潤う。だから好きなんです。キャラも可愛いですからね。

閑話休題

関西地方でも地味な印象の滋賀県。滋賀県といえば琵琶湖ですよね。滋賀県の面積の6分の1を占める琵琶湖。小さい頃は琵琶湖でよく泳いでましたね。琵琶湖に名前の由来知ってますか?琵琶湖って今からおよそ440万年前にできたと言われる湖です。で琵琶湖が歴史上に登場するのが”古事記”です。当時は近淡海と呼ばれており、日本書紀にも近淡海との記載があります。で琵琶湖の呼称は室町時代に活躍した僧侶の詩集に”琵琶湖”の呼称があります。琵琶の形に似ている湖ということで琵琶湖と呼んだのです。延暦寺の僧侶も琵琶に例えて記述しています。琵琶の形の湖。それが琵琶湖。分類的には河川になります。川なんです。水源として利用されているので。川なんですって。よく滋賀の人が「琵琶湖の水止めるぞ」って言ってますけど、水止める施設は京都府にあるんですよ。琵琶湖の水って大阪の淀川にまで伸びてるんですよね。滋賀・京都・大阪と繋がってて、京都気に食わないからって水止められたら大阪まで被害被る、まぁできないんですけど。京都の人ってすぐ滋賀の人見下しちゃうから

さて滋賀県。歴史的に非常に重要な役割を果たしている土地なんです。古くは最澄が延暦寺を開いた。比叡山延暦寺。真言密教の空海と双璧をなす、仏教の日本伝来の人ですね。”しんくうてんさい”と覚えろと言われ、今でも覚えています。真言密教(しん)=空海(くう)天台宗(てん)=最澄(さい)。延暦寺の修行は日本で一番過酷と言われています。千日回峰行。最初の百日で作法、所作を学び、その後1~3年目の間は連続100日、4~5年目は年に200日、毎日深夜2時に出発し約30キロ真言を唱えて巡礼する。礼拝する決められたルートを礼拝して歩く。地球何周分にも相当する距離をある行くそうです。途中で行が行えなくなった場合は自害する。そのため死に装束で行を行い、短刀を懐に持ち葬式代の10万円を携帯してします。これが5年700日。

でそれを終えると堂入りという行に移る。修行者は生き葬式を行い。堂に入る。堂では9日間の修行。この修行中は断食・断水・断眠・断臥。断臥とは横になること。横になるものダメという修行。これを終えると生身の不動明王ともいわれる阿闍梨になり、迎えられる。でまた真言を唱える行を6年目・7年目と続ける。

聞いただけで過酷さが分かる修行。この修行のYouTubeがあるので一度見てみてほしい。この修行を2度達成した方がいる。この方元々普通のサラリーマンだったそうだ。1度達成したが、満足いかないともう一度修行した。2度達成した人は1000年以上の歴史でも3人しかいない。もう仏様だよね

比叡山延暦寺といえば信長公の焼き討ちが有名だけど、この焼き討ちってなかったそうですよ。地層を調べた結果そんな大規模の焼けた跡はなかったみたいで、あったとしても御堂全て焼けたという規模ではなく下の部分が焼失した程度らしい。で当時の記録も京にいた公家の日記に書かれている。京からみたら比叡山全てが焼けたみたいに見えたんだろうね。この焼き討ちで一番張り切っていたのが明智光秀なんだよね。よく歴史ものでは反対して苦悩する光秀が描かれるけど、実際は逆、一番張り切って頑張ってた。確かにやるって時は家臣たちは仏罰が与えられると反対したそうだけど、信長公は「仏罰なら全てワシにくる。お前らは心配するな」と激励したそう。鉄砲が撃ち込まれる中陣の外にて「鉄砲玉もよけていくわ。打てるものなら打ってみろ」と鼓舞したそうですよ。当時は非常に信心深い時代。信長公はそういうたぐいは一切信じなかったと。松永久秀を怖がらせた過信孤児の歴史コラム。


本当は戦国最大の謎本能寺の変について書こうと思ったけど、そんな有名なもの書いても記事にはならないし、面白みないよね。


ってことで滋賀県についてです。別に私は滋賀出身でもありません。私は大阪生まれ大阪育ちです。けど滋賀県は幼き頃からずっと通ってました。


というのは父方のお祖父さんが亡くなった際、坊さんに来てもって、「お布施いくらでいいですか?」と聞いて「いくらでもいいです」と言われたのでお金渡したら「たったこれだけか」と文句言われたそうで、怒ったお婆さんがもう帰ってくれと坊さん追い出しお祖父さん弔ってくれるところ探した際、ある宗教団体に出会い、加入してそこに埋葬することになりました。その教団の本部があるのが滋賀県和邇。で毎年聖地が開く時期に墓参りしていたんです。うちは元々禅宗だったそうですが、乗り換えてたそうです。お祖父さんは私が産まれる前に亡くなったので両親から聞いた話です。母親がお祖母さんの後をついで教団に入ってたんです。だからうちに仏壇があって、毎日母親がお経あげてました。私も教団のイベントごとに何回か駆り出されてましたが、私は大学時代宗教の勉強をして、宗教というものに違和感がありました。でお祖母さんも亡くなったし、母親も足の手術したので、墓引き上げるって話になり、墓引き上げました。私に相談があったのですが、私は三男なんですけどね。次兄は忙しかったので事後報告。長兄は無関心でした。仏壇引き継ぐなら誰かが教団にって話で私がって言われてたんです。「別にそれはいいけど、先祖供養は教団じゃなくてもできるんちゃうん」って言って墓引き揚げを提案しました。墓引き上げてからは滋賀に行く機会減ったのですが、今はご当地キャラ博によく行ってます。ご存知ひこにゃんです。ご当地キャラは私の好きなものの一つです。所謂ゆるキャラですね。ご当地の歴史、名産等を知る事もできるし、何よりご当地が潤う。だから好きなんです。キャラも可愛いですからね。


閑話休題


関西地方でも地味な印象の滋賀県。滋賀県といえば琵琶湖ですよね。滋賀県の面積の6分の1を占める琵琶湖。小さい頃は琵琶湖でよく泳いでましたね。琵琶湖に名前の由来知ってますか?琵琶湖って今からおよそ440万年前にできたと言われる湖です。で琵琶湖が歴史上に登場するのが”古事記”です。当時は近淡海と呼ばれており、日本書紀にも近淡海との記載があります。で琵琶湖の呼称は室町時代に活躍した僧侶の詩集に”琵琶湖”の呼称があります。琵琶の形に似ている湖ということで琵琶湖と呼んだのです。延暦寺の僧侶も琵琶に例えて記述しています。琵琶の形の湖。それが琵琶湖。分類的には河川になります。川なんです。水源として利用されているので。川なんですって。よく滋賀の人が「琵琶湖の水止めるぞ」って言ってますけど、水止める施設は京都府にあるんですよ。琵琶湖の水って大阪の淀川にまで伸びてるんですよね。滋賀・京都・大阪と繋がってて、京都気に食わないからって水止められたら大阪まで被害被る、まぁできないんですけど。京都の人ってすぐ滋賀の人見下しちゃうから


さて滋賀県。歴史的に非常に重要な役割を果たしている土地なんです。古くは最澄が延暦寺を開いた。比叡山延暦寺。真言密教の空海と双璧をなす、仏教の日本伝来の人ですね。”しんくうてんさい”と覚えろと言われ、今でも覚えています。真言密教(しん)=空海(くう)天台宗(てん)=最澄(さい)。延暦寺の修行は日本で一番過酷と言われています。千日回峰行。最初の百日で作法、所作を学び、その後1~3年目の間は連続100日、4~5年目は年に200日、毎日深夜2時に出発し約30キロ真言を唱えて巡礼する。礼拝する決められたルートを礼拝して歩く。地球何周分にも相当する距離をある行くそうです。途中で行が行えなくなった場合は自害する。そのため死に装束で行を行い、短刀を懐に持ち葬式代の10万円を携帯してします。これが5年700日。


でそれを終えると堂入りという行に移る。修行者は生き葬式を行い。堂に入る。堂では9日間の修行。この修行中は断食・断水・断眠・断臥。断臥とは横になること。横になるものダメという修行。これを終えると生身の不動明王ともいわれる阿闍梨になり、迎えられる。でまた真言を唱える行を6年目・7年目と続ける。


聞いただけで過酷さが分かる修行。この修行のYouTubeがあるので一度見てみてほしい。この修行を2度達成した方がいる。この方元々普通のサラリーマンだったそうだ。1度達成したが、満足いかないともう一度修行した。2度達成した人は1000年以上の歴史でも3人しかいない。もう仏様だよね


比叡山延暦寺といえば信長公の焼き討ちが有名だけど、この焼き討ちってなかったそうですよ。地層を調べた結果そんな大規模の焼けた跡はなかったみたいで、あったとしても御堂全て焼けたという規模ではなく下の部分が焼失した程度らしい。で当時の記録も京にいた公家の日記に書かれている。京からみたら比叡山全てが焼けたみたいに見えたんだろうね。この焼き討ちで一番張り切っていたのが明智光秀なんだよね。よく歴史ものでは反対して苦悩する光秀が描かれるけど、実際は逆、一番張り切って頑張ってた。確かにやるって時は家臣たちは仏罰が与えられると反対したそうだけど、信長公は「仏罰なら全てワシにくる。お前らは心配するな」と激励したそう。鉄砲が撃ち込まれる中陣の外にて「鉄砲玉もよけていくわ。打てるものなら打ってみろ」と鼓舞したそうですよ。当時は非常に信心深い時代。信長公はそういうたぐいは一切信じなかったと。松永久秀を怖がらせた果心居士に対してもまやかしだと言い切ったそうです。で仏罰を恐れた武田信玄に”我は第六天魔王である”と手紙を送ってます。第六天とは仏教の世界でこの世を滅ぼすのは第六天と言われていて一番恐れられている存在でした。信長公は自分こそそれだと言いきったのです。

比叡山延暦寺は坂本の地にあり、この地を治めていたのが明智光秀でした。だから張り切ったのでしょう。

さて滋賀県は近江国と呼ばれ、平安時代より佐々木氏が代々治めてきた。この佐々木氏の出身と言われているのが佐々木小次郎。全然不明だけどね。言われているだけ。佐々木氏が分家していき六角家や京極家に分かれていき、北は京極家、南は六角家という風に治められてきた。戦国時代になると浅井家が台頭してきて、京極家を助ける形で六角家と争い、近江国を支配した。浅井家は天皇家の話の際に出てきましたね。この浅井家に目を付けたのは織田信長公。浅井家を滅亡させてからもこの近江の国の支配を重要と考えていたのでしょう。京も支配するようになった信長公。岐阜と京の往復は大変ということでこの近江の地に城を築きます。安土城。安土山を利用した巨大な城です。この安土城。城の概念を壊す城だったんです。城って敵の攻撃を防ぐものが主だったのが、この安土城は政治的要素が多いんです。天皇が住む場所が用意されてたり、天守閣があったり。遥か遠くの敵、上杉家に対する威圧の意味もあったんではないかと言われてます。古墳の話と共通する部分ですね。これだけのもの作れるんだぞって敵に見せる。近江を重要拠点ととらえていた信長公。信長公が生きていたら日本の首都は滋賀だったかもしれませんね。将軍足利義昭を助けた際も褒美として希望したのは近江と堺の掌握だったそうですから。近江商人の気質、流通の流れを理解し、重要と思ってたのかもしれません。信長公は大阪にも城を築く構想があったそうで、それは太閤秀吉が引き継いでますね。安土と大阪で東西ににらみを利かせ天下を統治する構想だったそうです。

実は安土城天皇が住む場所が問題になってるんです。天皇が来られた際5階部分に住居が用意されたそうですが、信長公の執務室は7階部分なんです。つまりは神であられる天皇を見下ろす存在が信長公だと言わんばかりの構造なんですよね。当時キリスト教が布教されてましたが、太閤秀吉、家康がキリスト教を禁止にした理由ってのがあって、キリスト教ってイエス様を信仰する宗教」で、日本には天皇がいるのにそれより偉い存在がいるって事になっちゃう。天皇から許しをえて、統治している自分の存在が否定されるので禁止にしたと言われてます。では信長公はなぜ布教させたのか。仏教が嫌いなわけじゃないんですよ。信長公って仏教の寺も建立してますから。ではなぜか。信長公は自身が神となればよいと考えていたのではないかと言われてます。ある日安土城下に大きな岩が置かれたそうです。である高札がたてられました。”この岩を信長と思って毎日礼をするように”と。この命令をおかしいと思った明智光秀が本能寺の変を起こしたという説もあるそうです。どこまで本当なのか。

この近江の地はずっと重要拠点と思われていたようで、浅井家の支配時、佐和山という土地(今の彦根)に一の家臣磯野員昌を置いてました。信長公の時代では米五郎左と呼ばれた丹羽長秀が治めていて、太閤秀吉の時代には石田三成、家康時代には井伊家が治めてました。井伊家が佐和山城を無くして彦根城をつくりました。彦根城は国宝指定されている城です。この城下に彦根東高校があり、城の中にある高校として珍しい高校です。寺子屋があった場所に高校が作られたそうで。甲子園にも出場する高校です。高校野球では井伊の赤備えに擬えて赤鬼打線と呼ばれてます。この彦根城廃城が決まてたんですが大隈重信が明治天皇に働きかけ保存が決まったんです。ずっと世界遺産登録を目指しているそうですが30年以上登録がされず、もうやめようという動きになってます。姫路城が世界遺産になっていて、その違いがイコモスには分かりにくいのが登録されない理由だそうです。20年以上も推薦リストに入ってるんですけど城なんて日本だけのもんですからね。分からないですよね。好きな城の一つです。彦根城。階段が急で怖く登るの大変ですけど、いいお城ですよ。

その家で重要と言われてる人に治めさせた地。それが滋賀県なんです。歴史的にも色んな地があります。昨年の大河ドラマ麒麟が来るの舞台でもあります。グルメも色々ありますしね。是非訪れて歴史探索してみては。

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