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幼年期に新鮮だった日常は時とともに腐敗し、大人はそれに「退屈」という名をつけている

お稽古でやっているお茶で、時々子供を連れてやってくる人がいる。
和室でダッシュしたり寝転んだりドラを鳴らしたり、私のことをなぜか「せんせい」と呼んだりと自由気ままであるのだが、まあそれはそれでかわいいし良いかと思いながら適当にお稽古をしている。


フランスの哲学者であるジョルジュ・バタイユはこんな言葉を残している。

「文学とはやっとのことで再発見することができた子供時代のことなのだ」

日常を単なる退屈にせず、ただ幼い少年少女のごとく鋭いアンテナを張り続け、平凡な何かを喜び、そして走り回る。
だれもが生まれたときには掌の中にあったものを、時間とともに失い、そして思い出すのに何年もかけて、そして再発見して文学が出来上がる、というわけだ。

そしてそこに詩を生み出すことで、忘れられない言葉を世界に残す。子供は詩人であるなんて言われることもあるが、わたしたちは永遠の詩人として日常を「退屈」以外のものとして感覚し続けられる感性を持ち続けることが肝要だ。

言葉がその場限りで死んでしまうのは、日常を見つめる眼差しが鈍いからである。
子供のころはあらゆることが新鮮だから、何も力をいれずとも日常を見つめる眼差しは強い。
しかし次第に、時間と共に慣れてきて人は日常に「退屈」という名前をつける。そしてその退屈こそが、我々の日常に対する眼差しを鈍らせ、気づきを喪わせていく。

結果、”気づかない”ままに発せられた言葉は死んでいる。何の感慨や刺戟もなく、ただかりそめの一夜のように、我々には何も残しはしない。
意味もなく、ただ沈黙を避けるための、社会の潤滑油のようなものになっているように感じる。「マジうける」「ヤバい」「いいっすね」と、人は日々発し続けている。言葉はあまりにも乱暴に扱われてはいないか。

ここまでの話を一言でまとめれば「確かな思想と日常を言葉に投影させ、その言葉をどこまでも磨き上げること」が大切だということだ。


少し視点をずらしてみると、子供というのはマイワールドのなかを全力で生き抜いている。こういう自己世界への没入は、周りの世界に害を及ぼすものだ。スマホやゲームに夢中で周りを顧みない人間なんかはわかりやすい。
私も全力で楽しくチャリをこいでいてトラックに轢かれかけたことが覚えている限りで2回ある。
子供という詩人は、現実と空想の線引きがイマイチ上手く行かないものだ。
子どもは目の前の現実が自分自身のものでしかないから現実そのものが自分の空想と重なってしまう事が不意に起きる。社会にある現実から、途端に自分の空想にジャンプするのだ。

幸か不幸か、大人にはそういう経験はあまりない。
それは社会の存在が自分の現実に立ち現われ、それに慣れるからだ。逆に言えば、大人は自分自身の世界を現実のものとして生きられていないということもできる。

だから、そういう世界をそれを空想の中に求めたりする。音楽を聞くこと、ライブに行くこと、文章を書くこと、演劇を見ること―そのいずれも、現実から離れた世界を味わうことだ。
妄想に身を委ねて、別の世界を生きる感覚。あの空間、世界では、常に自らの見える世界に数々の主人公がいるものだ。
ある意味、神さまのような視点から世界を見つめる瞬間だともいえる。


自分の世界に埋没していた幼年期の自分の在り方というのはあながち馬鹿にできないものだ。
「なぜおまえはおまえなのか」――この疑問に語り得る言葉を探して人は一生を過ごすが、小さなころは気にも留めることすらない。それはもしかすると、幼いころ、己を規定しつづける「核」の部分は殆どむき出しのまま、考えるまでもなく明らかだったから、なのかもしれない。
成長するにつれひとは、その核を守るように何重にもベールを巻き続け、仮面をつけて人と接することを覚える。そしてそのうち、なんとも思っていないものにも「いいっすね」などと軽い言葉を言えるようになる。

そんな日々の連続を経て、気づいた時にはそのベールで自分の核がどんな形をしているのか、どんな色をしているのか、そしてどんな触感なのかが分からなくなって、己の歴史を振り返る日がやってくる。
そうして人間は自分が一体何者であるのか、子供の頃の自分自身の色と肌触り、匂い、形を追い続けていく。

人は、自分が生きる原動力を得るために、アイデンティティを求める。ただ自らが自らであるという証拠を得て、他者との差異化をすることが、自分が確かに自分として生きる源になる。幼年期の詩人の魂は、もしかしたら大人の日常の退屈にこそ必要なのかもしれない。

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