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若さの価値を知るのは年を重ねてから

小学生や中学生だった頃、どこかに訪問すると必ず年を取った人が「キミたちのように若い子たちにあって元気をもらいました」といったことを言っていたものだ。

当時、「子どもにあって元気になるなら苦労ないだろ」と極めて冷淡な感想を抱いていた私だったが、30代に入ったときにふと「若い子のエネルギー」を感じることが増えた。

会社などで20代前半の社会人との関わりを持つとき、彼ら・彼女らが酒の場なんかでわいわいと勝手に盛り上がっている姿を見ていると、いつの間にか失ってしまった活力や情熱のようなものを見せられているような気になる。

「年上には気を遣え」という人間もいるだろうが、個人的には私が年上でも別に気を遣わずに勝手に若者だけで盛り上がってくれればいいと思っている。私はそれを見ているだけでいいのだ。その様子に「若ぇなァ」と、不思議と元気をもらっている。

これは20代の若い子にとっては、子どもとかを見たときの気持ちに近いのかもしれない。
幼稚園児や小学生がぎゃあぎゃあと走ったり騒いだりしているのを見ると、「なんか元気でいいなあ、あんな日もあったっけ」などと思い出すものだ。
あのときにふつと内にエネルギーがこもる感覚みたいなものを、年を重ねると子供だけではなく、20代の若い子などにも感じるようになる。

私たちはまだ若いから、私たちの同年代の人たちとの関わりで自然と元気をもらうことができる。周りの人と仲良くしていれば自然と元気になるのだ。要は、知らず知らずのうちに元気を交換しあっているのが、ほかでもない若者たちなのである。

しかし、40、50代となれば周りの人も当然年を取る。おじさんおばさん同士で関わりを持つことの良さはあるものの、活力をもらえるかというとなかなかそうでもないのだろう。思い出に浸り「あのときはよかった」などと口をつく瞬間が増えていく。おまけに周りの人たちが寿命を迎えてひとり、またひとりとその生涯を終えていく。
要は、いまある人付き合いだけで生きているばかりでは元気を人からもらうこともなく、自分が元気を与えることもなく、単に衰えていく。

それだけに、年を重ねても若い子たちと接点がある年寄りというのは結構幸せなのだろうと思う。自らが年を重ねたときにもそういったコミュニティとのつながりを持っておくほうが、幾分溌溂とした人生になるのだろうと思う。

人間の世界は様々なものの貸し借りでできている。幼いうちは様々なものをもらってきたと自覚することもしばしばであるが、実は自分より生きる歴史を刻んでいない若者に対してもなお、今この瞬間に借りがある。
若い子から知らずと元気を受け取っていることを自覚した時「ひとつ何かお土産に――」と、年上の人間は自然と若い人たちに何かをあげたり、ほどこしてみたりする。
正直に言えばいらないものだったりおせっかいだったりするものではあるが、そのなかにこもる気持ちや温かさのようなものを知るのは、衰えが体を蝕み始めた年月の中なのである。

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