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自立と自律が大人の条件

子どもから大人になる過程は、依存から自立に向かう過程である。

小さな頃は食事から排泄から何から何まで親に依存していたわけだが、時間とともに食事や排泄を自らやってみたり(失敗もするが)、逆にすすんで手伝いはじめたりもする。そして次第にお金を稼いで、勝手に家を出て行って一人で暮らすようになる。
こんな風に具体的な行為について、ひとり立ちをすることは「自立」と呼ばれる。

自立を究極的に追求すると自給自足の生活が待っている。そこまでいくとあまりリアリティがないので、大概の人は身の回りの生活については自立している一方で、食べ物の生産・運搬、道路の舗装という話になると企業に依存した状態にある。それだけに究極的な意味で「自立」をするのは、現代社会においてはなかなか難しいし、それが必ずしも望ましいことには思えない。

「自立」が精神の領域に入ると「自律」なんて言い方をする、と私は解釈している。
自律とは、自らの心を自らコントロールできる状態を指している。たとえば、イライラしたときでも自分の心を平静にし、モノや人にあたらないというのは立派な自律であるし、自分がつらいときに他人に心を寄せられるのも立派な自律だと思う。小さな頃はなかなかこれができないものだが、成長とともに少しずつできるようになっていくものだ。

自律のほうは追求すると真面目な修行をしている坊さんみたいな精神を獲得することになるのだろうが、だからといって特段デメリットが生じるわけでもない。自律はできればできるだけ望ましいものだ。

自律している人と一緒にいると、とにかく面倒くさくないものだ。逆に自律していない人と一緒にいると、段々と「面倒くさいな」と思うようになる。

思うに、人生とは自立と自律を通じて他者に与える過程である。与えることができる存在は大人である。

冒頭に書いたように人間はみな最初は依存せざるを得ない状態から始まる。逆に言えば、自分が依存しうる誰かが与え続けてくれていたということでもある。子どもに対してその役割の多くを、歴史的には母親が担ってきた。

依存している状態は与えられている側からすると気分が良い。ぼーっとしていてもなんとなくうまいことコトが回る仕組みであるからだ。
でもその状況に対して「これでいいのか」とか「自分でやってみたい」と思ったときに自立の道は開けていく。そして自立の過程で出会う精神的な葛藤や苛立ちをどう抑えこむのか、そして現実との衝突の中で自律のすべを学ぶ。
快適で望ましい状態から積極的に脱却していくことで、自立と自律の一歩は始まるのである。

このときに、下駄を履かせてしまうことがある。
子どもであればその気にさせるためにいろんな仕掛けをすることはあれ、なまじうまくいってしまうと「自分はできたぞ」という気になってしまう。もちろん、実力はついていない。
そして、下駄を履かせると能力が十分ではないので、人に与えることができなくなる。
その結果、「いい年して……」などと小言を言われてしまい、周りから人が離れていってしまうこともある。

これは教育をする側の配慮というか、もっといえば「おまえなんかにこれはできない」という諦めなのである。
下駄を履かせるということは、そいつに対しての期待がないということを象徴的に示している。自律と自立が不足しているのは、教育者による信頼が欠落しているからなのではあるまいか。

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