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面白くないと感性は枯渇する~普通の人生に抵抗してみよう~

社会人になりたてのころだったか、長らく付き合いのある友人と話をしていたとき、「社会人になってみて、少しずつ自分が普通の人間なのだと気づき始めた。そして、そういう面白いもの、凄いものを持っているひとは、俺にそれを話してほしい、見せてほしいと思うようになった」と語ってくれたことがあった。
なんとなくだが、当時の私も首肯するところが多かった。

大人になっていくなかで、自分はつまらなくて、普通の平凡な人間なのだと感じることが増える。
子どもの頃に比べれば、興味深い発想も自分の中から枯渇しつつあるような気がする。日常に疑問を抱かなくなり、社会から与えられる刺激に慣らされ、そのうちに感性は枯渇する。
毎日・毎週がただ繰り返されていく感覚は、どんな仕事をしていてもサラリーマンとして組織に隷従させられておれば誰しも感じたことはあるはずだ。そしてこうした日常の中で社会に隷従を続けておれば、感性の衰えがやってくるのも時間の問題だ。

感性の衰えについて少し考えてみると、これは思うに自己の内部からか、外部からかの2つの経路で訪れる。

自己内部からやってくるものはただの「衰弱」である。加齢によるものなんかがわかりやすいだろうが、この衰え方はやむを得ないところもある。

重要なのは自己外部からやってくるものである。さも自分の感性についた「足」を引っ張られているようなもので、非常にタチが悪い。例えばそれはただ繰り返される日常という自己外部の要因であって、そのなかにただ生きているだけでは、私たちの感性は衰えていく。

外に感性を殺す要因があるとき、それを食い止めるために一体どうしたらよいのか。
するとそこに「面白さ」という価値が見えてくる。
面白さを単純に分けるとinterestingとfunnyの二つがある。日本語でいうなら、知的な面白さとお笑いの面白さと、そんな感じだろうか。
前者の面白さであれば、これは自分の興味のある分野の勉強をしているときだったり、傑作の文学を読んだあとに感じるものだ。後者の面白さはアホなことをしたときのそれだったり、シュールさとも繋がるかもしれない。

わたしはこの両方の面白さに価値があると思うし、境界線を引くのは難しい。
だから、どちらが優れているとかいないとか、そういった感覚を私は持ち合わせていない。いずれにせよこの「面白さ」に触れ続けていないと、知らず知らずのうちに感性は死ぬ。


私個人としては感性の枯渇が表現への欲求を剥落させていってしまう事態が何よりも怖い。
文章が書けずに表現の手段を失うことは私にとって恐ろしいことだ。「潜水服は蝶の夢を見る」や「ジョニーは戦争に行った」という映画のような事態になったら…と、考えるだけで怖い。

だからこそ私も感性を殺さぬよう、彼と同様に自分とは違うものを持っている人が、自分に目新しい、新奇性に満ちた何かを与えてくれる瞬間を切望している。

そして、そういうものを自分が生み出すのだ、という意識を失っていることに気づいたその瞬間にまた、危機感を覚えるのである。
本来は文章や表現を通じて「面白さ」を私が与えるのではなかったか。
この「面白さ」を生産しつづける側だったのではあるまいか。

そのことに気づいたのは20代前半で彼が話していた言葉を思い出した、ほんの最近のことである。

社会人をまがりなりにも8年くらい続けてみて気づいたのだが、私たちは知らず知らずの間に、普通の人間になるための矯正を施されているのだろうと思う。巨人の星の星飛雄馬がギブスをつけられていたように、我々も不可視の「凡人一号養成ギブス」をつけられているわけだ。
さすればそれを今すぐにでも取り外して、普通であることに抵抗を続ける日々を送り、そしてそれを人生と呼ぶひとでありたいと思う。退屈で停滞し続ける面白くない世の中だからこそ、わたしたち一人一人の人生は面白いほうがいい。

面白さを生み出して私たちの感性が潤えば、今度はそんな潤った感性をもったひとから面白いものが生まれ、そして誰かの感性は潤うのである。

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