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尊重

 オーストラリアへ来てから半年くらいの間に二回キレられた。

 一回目の相手は最初に働いていたラーメン屋の中国人のオーナーだった。三十代半ばくらいのやや小太りでいつもニコニコしている男で、流暢な英語とかなり達者な日本語を喋った。僕は他のスタッフ達から「あいつには気を付けろ」と入店当初から警告されてきた。いつも口だけで行動が伴わない上に、給料の支払いは毎度遅れるとのことだった。その給料にしてみてもオーストラリアの最低賃金を下回っており、現金払いであることから税金を払っていないと噂されていた。彼はたまに業務連絡で店にやって来ては賄いを食べて帰っていき、僕にとってはあまり関わりのない人間だった。たしかに給料を支払いに来るのが一週間ほど遅れるのはザラだったが、他のスタッフが日常的に彼の愚痴を溢していたため、僕の中での期待値は最初からかなり低く、特に失望することもなかった。
 店を辞める際にそれは起こった。僕は引っ越しを控えていたのだけど、その前日にも朝から晩までシフトに入っていた。その夜のうちに当日分も含めた一週間分の給料を受け取らなければならず、さらに僕はオーナーの所有するシェアハウスに住んでいたため、水道光熱費などを精算する必要もあった。しかし、事前に伝えて営業終了後に店に来るように約束していたにも関わらず、彼は待てど暮らせど姿を現さなかった。僕は翌日の朝早くの電車に乗る予定だった。電話に出なかったので再三メールした末、彼はシェアハウスで待つように言ってきた。そして郵便受けに溜まっている水道光熱費の請求書を集めておくように指示され、僕はそれは自分の仕事ではないと答えた。すると今度は部屋に掃除機を掛けておくように言われ、そんな物を家で見たことがないと返すと、どこかにあるから探せと言われた。そして、彼は自分をもっとリスペクトするように要求してきた。シェアハウスに戻ると別店舗の中国人の従業員がやってきた。彼は郵便受けを漁りながら電話で話していたので、僕はオーナーだと察して代わってもらった。今どこにいるのかと訊くと家だと答え、何をしているのかとさらに訊くと彼はキレ始めてFワードを連発した。数十分後、彼はシェアハウスに笑顔で現れた。それで全てを水に流そうという魂胆だと分かった。僕は英語で自分の考えを可能な限り述べた後に日本語で補足したが、ほとんど意味はなかった。それは言語能力ではなく根本的な価値観の差異による問題だった。諸々の精算を行って彼が帰っていった頃には、既に日付が変わっていた。結局、掃除機は存在しなかった。

 二回目の相手はホステルで二段ベッドを共有していたイタリア人のルームメイトである。彼はドアを開けるだけで閉めることを知らず、剃った髭をいつも洗面所に撒き散らし、僕の食器を勝手に持ち出してはどこかへ置き去り、毎日爆音で音楽を掛けながら大麻を吸い、週末にはLSDやコカインをやるような男だった。ホステル内ではトラブルメーカーとして知られ、オーナーからも散々警告されていた。ある夜、僕は夜中の四時に振動で目を覚ました。ベッドの下側を使っていた彼が女を連れ込んでいたのだ。前に滞在していたホステルでも同じことがしばしば起こったので、これはそれほど珍しい体験ではない。このようなシチュエーションで好奇心や興奮が喚起されるのは最初の一回だけで、それ以降はただただフラストレーションが湧くだけである。彼らはことを済ませてしまうと、僕が再び眠ろうと懸命に努めている最中にイビキを上げ始めた。もう一人居た韓国人のルームメイト曰く、彼らは翌朝にまたコトに至っていたらしかった。僕が日課のランニングを終えてシャワーを浴びようとしたところ、二人が使っていたためバスルームに入れなかった。イタリア人の男はその日の午後に謝罪してきたが、翌週末に別の女を連れ込んでLSDを一緒にキメていた。そのおかげでまた深夜に叩き起こされたのだけど、彼は翌朝になって機嫌良く話しかけてきた。セックスしなかったことで自分を誇っているようだった。ちなみに最初の女は僕が仲の良かったシンガポール人と同室で、後日彼女を介して号泣しながら謝ってきた。「私はあの男とは違う」と必死に弁明していた。
 その一件から数週間後、仕事に行くために同じホステルの数人と車に同乗した際、僕は後部座席の下に自分のマグカップを発見した。二ヶ月ぶり三度目くらいの再会を果たし、感動が負の感情を上回った。共用の食器はまともに洗わない輩が多いため、僕はあえて特徴のあるデザインを選んで買った時の思い出を同乗していた友達に語った。しかし、部屋に持って帰ったのも束の間、その日のうちにイタリア人がテーブルから落として割ってしまった。彼は謝りながら新しい物をすぐに買うと約束した。だが何日もその様子はなく、僕がいつ買うつもりかと尋ねると彼はキレ始めた。本人曰く、僕は例の一件以来ずっと"Bitch"で、もっと話し掛けたり愛想良く振る舞ったりしろということだった。彼は人種に纏わる差別用語を喚き散らしながら、自分をもっとリスペクトするように要求してきた。あまりの正当性のなさに、その場に居合わせたほかのルームメイトが彼を嗜めた。翌日、イタリア人は謝罪してきた。しかし、後になってまた他の女を連れ込み、痺れを切らした韓国人のルームメイトが夜中の四時にキレた。不毛な舌戦が繰り広げられ、僕と韓国人は共通のキッチンのソファーに布団を持ち込んで夜を明かした。イタリア人は最終的にオーナーの命令で別の部屋へと移された。その部屋には彼がいつもツルんでいるイギリス人のグループが居たのだけど、その彼らも「なんでこの部屋なんだ」とオーナーに文句をつけていた。

 

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