祖母が亡くなって約1ヶ月SNSから離れていた話
〇〇な話というようなタイトルの付け方は、癖になってしまいそうであまり好きではなかったのだけど、タイトルから一目で私の状況をわかって欲しかったので今回ばかりは仕方がない。たぶん、これからこの形式を用いるときは、「そういうとき」になるだろう。「一目で私の状況をわかってほしいとき」、だ。
まず、全てのSNSから離れていたため、色々な返信を滞らせてしまったことは申し訳なく思っている。ごめんね。
そもそも、はじめの一週間あたりはTwitterやInstagramどころではなくなっていた。
気持ちの問題ではなく、少々忙しかったからだ。祖母が亡くなり、その後どうするかという話やお葬式、遺品整理を手伝いに行ったり、ただの孫であってもやることはあった。
私がお葬式に参加するのは正確には2度目なのだが、1度目は二歳くらいの頃だったので全く覚えていない。つまりは、ほぼ初めてであった。
どこかで見聞きした知識で、高校生ならば制服で参加すればよいこと、艶のあるものを身に付けるのはダメで片化粧を施すこと、焼香のやり方は宗派によって異なるものの1から3回行うことを覚えていた。これを書いている今も、それらが正しい知識なのかわからないので決して参考にはしないでほしいのだが、とにかく私は前に通っていた高校の制服を再び着なければならなかった。
こんなタイミングで、もう2度と見ることがないと思っていたそれを、着ることになるとは思わなかった。
久々に着た制服はびっくりするほど似合っていなかったし、窮屈だった。私は入学式の翌日にはスカートをかなり短く切っていたので、切らずに残しておいた方のもう一枚のスカートを履くのは変な感じがした。
膝下まであるプリーツスカート、おしゃれとは言えない紺色のブレザー。よく、こんな堅苦しい格好で重い荷物と満員電車を平気で乗り越えていたと思う。
コスプレのように思えたそれを着たまま、私は座ってお経を聞いていた。
艶のあるものを身につけてはいけないのはどうやら参列者だけのようで、お坊さんは金色のきらきらとした模様のある派手な着物を着ていた。遺影と、飾られた花たちと、祖母が眠っている白い棺と、お坊さんの存在が、まるで違う国にいるかのように現実味のない空間だった。
私は仏教徒ではないし、全く知らないだけなのかもしれないが、はじめてちゃんと聞くお経は到底日本語には思えなかった。リズムと音程があって、故人に捧げる歌のようなものにも聞こえた。
これは、異国のHIPHOPかもしれない。真似できそうでできない、声の出し方も雰囲気も、ラッパーに通づるものを勝手に感じ取った。
はたまた、オペラかもしれない。高い声も低い声も、語尾の上がり方や下がり方、全てが計算された音楽なのだろうか。
祖母のお葬式でこんなことを考えている私は不謹慎で最低な人間なのだろうが、そうでも思わないと’死’というものの本質を見た気がして怖かったのだ。
死ぬことは、ただ存在が消えることとは全く違う。若者が軽率にいう「死にた〜い」は、「どっかに消えてなくなりた〜い」の間違いなんじゃないだろうか?死んでしまえば、棺に入れられて焼かれてしまうのだ。
死は魂が別の世界に行ってしまうだけで、悲しいものではないの。身体はただの殻なのよ。
ならばどうして人間は見た目を気にするのだろう。体を鍛えたがり、美を追求したがり、身につけるためだけの物質を求め、色や音楽を心の拠り所にし、人の温もりを待っているのだろう。
ただの殻ならば、私の人生は無駄じゃないか!!!
もう、訳がわからなくなっていた。火葬場に行くまでの車の中で、そんなことがぐるぐると頭を駆け巡る。この思考が巡る脳も、流れている血も、髪も指先も、全部ただの殻なの…?死は誰にでも訪れることで、いつでも享受してやろうと意気込んでいたのに、消えてなくなりたいとは思っても焼かれたいなんて言っていない。
もし明日死んだら、私は焦ってしまうのだろうが、勝手に棺に入れられ、焼かれ、色んなことを言われても反論できず、物を片され、見られたくないもの(特にはないけど)を見られてしまうのは仕方ないことなのだ。
それなら私、死ぬのではなく、周りの人間の記憶も存在も物も全部まとめて消えたいのですが。魂だけ移動するなんて、嫌なのですが。
◇
子どもの頃、とても不安に思っていたことがあった。
もしまだ死んでいないのに、
焼かれちゃったらどうしよう…?
大人は、ちゃんとお医者さんが確認してくれるから大丈夫なのよ、と言う。
いやそういうことではなくて、
身体の機能も息も止まってしまっているけれど私の中だけで意識があったらどうしよう?
ということを言っているんです。
これは前の高校で、脳死と植物状態について討論したときにも考えていた。脳死と植物状態はちゃんと違いがあるし、そうじゃなくても医師の死亡確認がちゃんとされるので、亡くなったと言われたならそれは亡くなったということになる。けれども、本当に死んでいるのかどうかわかるのは本人だけなのではないだろうか。
私の言っていることは医学の範囲を超えてしまっているし、どうすることもできない。ただ、身体の機能がどうであれ見た目が眠っているのと変わらなければ、亡くなったと言われても簡単に納得できないのではないかと思ったのだ。
棺で眠る祖母を見たとき、その考えはすぐになくなった。
ああもう、この人は目を開けないのだろうなと、生きている私の全身が納得してわかることだった。
呼吸が止まっているからでも、お葬式という場だからでもない。ここ1ヶ月くらいは腕を少し動かすのすらできなくなっていたし、たまに水を一口飲むくらいなので身体も痩せているのはよく知っていた。見た目だけで言えば変わらないものの、そこには本当に魂がなく抜け殻があるだけだった。
身体は、やっぱりただの殻に過ぎないのだろう。まるで人形のように見えた祖母の抜け殻を見て、それを火葬場に運んで、よくわからなくなってしまったのだ。
私は、生きているか死んでいるかの境目なんて曖昧なものだと思っていた。気の持ちようで、生きていても死んでいるかのような人だっているからだ。
ただ、実際は、物理的な死にははっきりとした境目が存在していた。
明らかに抜け殻になってしまった身体を、以前のように’その人’だとは思えないし、ましてや焼かれてしまって骨だけになってしまった頃には、もうどこにもその人の魂のかけらはない。持ち物や写真や映像や、そういった物ではなくて、この世で生きていることの証だった、魂に触れていたものはひとつも残っていない。簡単に改ざんされてしまう記憶と、勘違いとが残る。死人に口なし、もう言葉すらこの世には届かないのだ。
そんなぐちゃぐちゃの思考で、忙しないSNSを見ることはできなかった。
無責任に言葉が飛び交い、平気で人を傷つける。言葉は、ナイフじゃなくて拡声器だ。生きている私たちが使える貴重なツールなのに。
私はこうして言葉を届ける身として、自分なりに気を使って載せているつもりだ。自らの想像の及ぶ範囲ですら懸念点がある言葉を、無視して書くことはしない。一文字一文字に、責任と意味をもつ。
魂の抜け殻ですらない、私の紡いだ言葉たちに、魂をのせたい。いつか私が死んだとき、ここから生きた証を感じて欲しい。
初めから終わりまで、私の文章は矛盾だらけでオチもまとまりもなかっただろうが、私がこの1ヶ月考えていたことを必ず書き留めるべきだと思ったのでこうして書くことにした。想いや考えを書くことは、私が生きてきた軌跡になるとずっと信じている。これは、この1ヶ月を通して、その思いがより一層強くなったというだけの話なのだ。
あとがき
お久しぶりです。心配をかけてしまった方、返信を滞らせてしまっていた方、ごめんなさい。
この文章から勘違いしないでいただきたいのは、「ショックでSNSを見れないほど弱っていた」わけでは全くないので安心してください。むしろ元気でした。
SNSの忙しなさに脳を追いつかせることよりも、もっと考えたいこと・やりたいことがあったんです。本文にあることもそうです。
SNSから離れてみてわかったことは、なくても生きていけるけど今までかなり生活に根付いていたものだったということ。はじめの一週間は単純に忙しかったですが、その後はSNSをチラチラ気にしている自分もどこかいました。だけど三日もすれば全く必要のないものだと感じました。
全く必要のないものなのに、なんとなく必要としてしまっているもの、それがSNSなのだと思います。ぼうっとInstagramを見たりしょうもないことをTwitterで呟くことは、意外とストレス発散にもなっているのかもしれません。代わりになるものが見つかれば、すぐに不必要にはなってしまいますが。
情報を得たり、暇つぶしには最適だから、無駄に使う時間は減らして本当に必要なときに使うようにしようと思います。とはいえ私は、SNSに依存しないと生きていけないのでしょうね。
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