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自分の欲求至上主義は主体的な選択の覚悟と誇りを奪う~欲求の辻褄など無視すればよいのに~

現代社会は自分の「欲求」を大切にする時代のようだ。
本当にやりたいことは何か。欲しいものは何かと問い続けている。
そしてその願いが叶わないだけでなく、忘れさせられて、義務的なことで押しつぶされていると苦悩する。自我の時代、特有の悩みの構造だろう。
この考え方の起源はここでは問わない。もはやそれは私たちに浸透して疑問さえも持たなくなっているのだから。
このことを単純な欲望の解放だと定義するのも間違っている。
現代人を観察してみるとよい。やるべきことを為すようにと定められて野放図な欲求など持ってはいないではないか。
むしろ、大きな欲求が持てないという絶望、怨念のようなものを感じる。
私はストレスケアの現場で「やりたいことができない」という訴えをよく耳にする。それが破壊的なエネルギーとなり、仕事を辞めたり、家庭を壊したりする動きにもつながっている。(どんな選択をしてもそれが自由な主体性に基づくものなら支持するのは当然だが。)
そして、本当の自分の心に正直になるようにと称賛するような周囲の反応もある。
私はこの図式には様々な誤解や思い込みが潜んでいると感じている。
日々の生活の中で他者の言動や環境の状況、特定の刺激によって、確かに嫌悪感や隠していた願いが吹きでることはある。
過去の未解決の問題が保存されていて、ある場面での「自分」と「相手」と感情が再現されようとする。
しかし、実は今ここでの私は当時の「自分」とは当然異なり、ましてや、目の前の相手は過去の相手とは変化しており、ときには似ているだけの別人であったりする。
このような過去の再現という固定化された反応が、はたして本当の自分の願いというような価値あるものだろうか。
体調によって、状況によって、人間は様々な想いや感情を表出するが、それは自分と言う「現象」の姿であって、そのすべてに自分が責任を負うものでもない。
大切なのは、そのうえでどう選択するかという主体性だろう。
自分の中から湧き出てくる欲求を束ねて形にして行動化することは否定されるものではないが、それ以外にも様々な理由で考え方や行為は自由に選択されてよい。
この自分の欲求至上主義というのか、ほかの動機や目的をまるで人間らしいものとは見ない傾向はどうしたものか。
是非は別にして、かつては信念のため、仲間のための行動選択も価値あるものだとされてきた。
現代ではそれはきれいごとであり、湧き出てくる欲求を実現しようしないのは単なる我慢であるという。
私はここから整理しないといけないと考えている。様々な欲求が湧き出てきてもよい。それは現象として認める。
しかし自分が責任を持つのは人生上の「選択」であると。
そして湧き出てくる欲求が浄化されるかどうかよりも、適切な選択をしたものが幸福な人生を創造できるのではないか。
空腹だからといって他人の弁当を盗んだりしないが、食べたいなという気持ちが湧いてくることは仕方がない。
現実に影響を与えない思いは夢のようなものだ。
現代社会の心理主義は、心を見つめすぎる罠に私たちを落として、選択の覚悟と誇りを奪ってしまったように思う。
そして自分の心として湧き出てくるものの「辻褄」を合わせるために行動化していくのだから生活がアンバランスになるのは当然ではないか。

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