いつも、全部おいしかった。【chapter69】
タカシのとても静かな声。
静かすぎて耳が溶けた。静かで穏やかで温かな声に耳が溶け、状況にそぐわぬ安心が全身を溶かした。頬の内側を噛んでも、喉が痛かった。一度でもまばたきをすれば、溢れてしまう。だから変わりにため息を落とした。
真っ黒になったオセロ盤をタカシは、躊躇わず真っ白に塗り替えていく。
真っ直ぐで不器用、利他的で愚かな偽善はタカシの正義だ。仏ではなく人間であったタカシの。許すも許さないもない、今、あの夜に戻り「怒ってる?」と尋ねたとしても、怒りや他の真っ黒な感情を抱えていたとしても、穏やかに目を細めて笑いタカシは答えたと思う、絶対。
「怒ってないよ」
と。そういう男だった、そういう兄だった。
逆立ちしても、歳を重ねても、瞳が黒くなっても、一センチ違いの身長を追い越したとしても「タカシには敵わない」その一センチには圧倒的な開きがあるのだから。
最後の、三人の夜。
タカシの部屋の玄関に立つと、濃い出汁の匂いがした。
(腹が減った)
その匂いだけで、蓄積した疲労が慰められる気がした。
(あの夜、ソノコはなにを作っていたのだろう)
話したいことがあるから来て。何時でも良い。それとリョウくんはなにも間違ってないだから謝る必要がない
昼間、タカシからのラインに返信をした。
出汁の匂いを吸い込み「三人でいつものように旨いものを食べたい」と、リョウは切実に思った。その夜を平和に、「じゃあまたな」と二人に見送られタカシの部屋を後にしたいと、切実な、祈りに近い思いだった。のに、
「虫酸が走る」
タカシへの最後の言葉。
タカシの部屋を出て、車に乗ると助手席に置き忘れたコンビニの袋。カップのアイスクリームが三つ。小豆色のふたの、ソノコが
「これは特別な日だけ」
定期的に、割と頻繁にやってくる特別な日に食べていたアイスクリーム。
「疲れたときは甘いもの」
ソノコの口癖。
「なんだそれ、くそばばあ」
エンジンをかけ、タカシのマンションを後にした。フロントガラス越しの夜景が歪み、頬を水滴が流れ落ちて、雨が降っている事に気づいた、ワイパーを動かす。いつかの三人の夜を思い出した、チョコレートの夜だ。
三人でいつものようにテーブルを囲んでいた夜。月末で、疲れた顔をしたタカシとソノコは黙々と、夕食をとっていた。月末に限らず常時疲労を抱えるリョウは、定期的に割と頻繁にやってくる特別な疲労を感じながら、
「しょっぱくて口が痛くなるな」
「固くて噛むのが疲れる」
「お前これ味見した?」
と、箸を止めずに毒を吐き続けた。
「態度。いい加減にしなさいよ、一昔前の姑じゃないだから。嫌なら食べなくて良い、当たり前じゃないよ、これ。疲れて帰ってきて温かい食事と暖かい風呂があること。リョウくんさ、八つ当たりするならもう帰ったら?せっかくの食事が不味くなる、ソノコも疲れてる」
「風呂のことはとやかく言ってない。あの、臭い入浴剤を入れると眠くなるって言っただけだ」
リョウは箸を置き、腰を浮かせた。言われなくとも帰る、もう既に眠い。
「待って」
ソノコが毅然と呟くと席を立ち、キッチンへ行き冷蔵庫を開け、薄っぺらい長方形のブルーの箱をテーブルの真ん中に置いた。
「これね、すっごく人気なの。チョコレートよ、全部で十粒。リョウくんまだ開けちゃダメよ、味が全部違うからあとで説明してあげる。
このお店ね、いつもすっごい行列なのよ、バレンタインやクリスマスのケーキ屋さんみたいに大混雑よ。ついでに清水の舞台が浮かぶ金額よ?つまり、特別な日に食べる特別なチョコレートよ。私はね今日すっごく疲れてたのよ、ヘトヘトよ、今月はずっと厳しかったから。それでね仕事帰りにお買い物に行ったらこの行列に出会ったの。三人で食べたいって、タカシくんとリョウくんに食べさせたいって思っちゃったのよ。でもすっごく疲れてたから行列になんて並んでないで、夕食のお買い物だけして、さっさと帰ろうと思いながら、気づいたら並んでたの。
タカシくんとリョウくんのことだけを考えてたのよ。
二人もずっと疲れていたでしょう?疲れたときは甘いものよ。あとで美味しいコーヒーを淹れてあげる、食べましょ。じゃんけんで選ぶ順番をきめましょう?だからリョウくんわかった?リョウくんはこれを食べる義務があるのよ、私がヘトヘトの疲労をおしてタカシくんとリョウくんだけを思って、長い列に並んで、清水の舞台からダイブしたのよ?つまり愛よ。
こんな空気にして不貞腐れて帰ってる場合じゃないわ、チョコレートを食べて美味しかった、じゃあまたねって帰らなきゃだめよ。
とにかく、疲れた時は甘いもの、元気な時はしょっぱいものが美味しく感じるはずなの、だからつまりね、リョウくんはとても疲れているのよ」
「元気なときはしょっぱいものがおいしいの?」
「お前の浅知恵は信憑性に欠ける」
「んー、やっぱり?やっぱりねえ。前の前の彼氏にね、ぽたぽた焼みたいで鬱陶しいって言われたのよねえ」
「ぽたぽた焼?」
タカシとリョウは同時に呟くと、しょんぼり下を向くソノコを見つめそして、二人、目を合わせる。
「知らない?ぽたぽた焼ってお煎餅。甘くてしょっぱくておいしいのよ。子供の頃食べなかった?ぽたぽた焼って名前じゃないのかしら。パリパリしてておいしいのよね。あれ、なんでぽたぽた焼って名前なのかしら」
「名前はいいから、続きを話せ、前の男に言われた鬱陶しい話を。それと煎餅はたいがいパリパリしてるから覚えとけ、とにかく続きを話せ」
「ん?あー、個包装のお煎餅でねパッケージの裏側に、おばあちゃんの知恵袋みたいなね、昔ながらの生活の知恵みたいな、ほんわかしたプチアドバイスが書いてあるのよ。パッケージごと全部アドバイスの内容が違うの、じっくり読むと楽しいのよ。例えばね、なんだったかしら、ほら。お茶殻でお鍋の焦げを擦るときれいになりますよとか、お茶殻じゃなくて玉子の殻だったかしら。違うわね、クレンザー?」
「ソノコ、クレンザーの話ももういいよ。それにクレンザーを使って焦げを落とすのは、多分おばあちゃんの知恵袋には書いてないと思うよ」
「そうよねえ。まあだからとにかくね、その前の前の彼氏に私、何かしら世話を焼いたのよね多分、忘れちゃったけど。とにかく『いちいちぽたぽた焼のばばあみたいで鬱陶しいって』言われたのよねえ。ばばあって、ひどくない?ぽたぽた焼のおばあちゃんに失礼よね」
「そっちなの?」
「そっちってどっち?タカシくんなに言ってるの?」
「ん、もういいよ大丈夫、わかったから。ソノコ、もうさ、もう他の男には知恵を授けないで」
煎餅の話が始まった時から『前の前の彼氏』という言葉につまづき、煎餅や鍋の焦げどころではない胸中であろうタカシが、不安げにソノコの頬を撫で、可笑しかった。リョウは頬の内側を強く噛み笑いを堪えた。
再び箸をつけてみれば「普通に旨い」ポークソテーをリョウは完食し、ソノコが淹れた濃いコーヒーを飲み、三人でじゃんけんをしてチョコレートを選んで食べた。
ソノコは一回戦で早々に負け、(ソノコは無自覚でチョキばかりだす)三番目に、柚子のチョコレートを選び、
「ほろ苦い!柚子大好き!これ絶対一番おいしいわ、勝負に負けて試合に勝ったわ、わたし。また二人に買ってきてあげる」
笑っていた。
二番目に、柑橘類に目がないタカシはピスタチオのチョコレートを選んで、
「ガリガリ君の味がする、うまい」
と真顔で呟いた。
(舌が狂っている)
リョウはその夜の、自分の態度を改めて振り返り反省した。タカシはタカシで末期の疲労を抱えていることに気づいた。
(俺があの時、一番目になって、選んだチョコレートの名前はなんだったのだろう。塩の味がしたし、ピンクペッパーが一粒のっていた)
「運転危ないから、帰る前にお風呂に入って眠気を覚ましなさい」
と、ソノコがいつもの入浴剤を盛大にいれた、イランイランだ。眠くなった
**********
助手席に置き忘れた、三つのアイスクリームを見つめリョウは、チョコレートと煎餅とイランイランを思い出す。甘いものにすがった自分の気持ち。
「全て終わった」
アイスクリームを車に忘れていったからだ。
そもそも、甘いものに救いを乞うたせいだし、あいつがばあさんのように数々の知恵を授けたからだし、チョコレートを愛だと言うからだし、タカシの筋金入りのお人好しのせいだし、俺が運命と勘違いして……勘違いしたせいだ。
リョウは雨の中、タカシの部屋から自分が暮らすマンションへ帰る途中、コンビニで車を停め、ゴミ箱にアイスクリームを袋ごと捨てた。
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ジャスミンティーの氷が、かなり溶けた。
耳をすませば、いつ知れずブルーハーツはハイロウズに変わった。隣のオギは喋り続け、ビールは四杯目になった。
いまだ直視するに難い、最後の三人の夜を、リョウは心の頑丈な箱の中に閉じ込めた。
閉じ込めたそれを、時々自ら、箱の蓋をあけ、じっと見つめてしまう。タカシに会いたい。笑うと細くなる目を見つめ、
「苦労が絶えないんだな」
と少しずつ本数の増える白髪頭を茶化し、なに一つ良いところのない自分に
「リョウくん大好きだよ」
を言って欲しい。そして、聞きたいことがある。
タカシ、今も俺を好き?
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