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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 かんざし(改訂版) 3章

       

       3章

 悲しみを紛らわすために、夜な夜な仁平の足は居酒屋に向かうようになった。酒は医者から止められていたが、飲まずにはいられないのだ。
 クリスマス・イブであった。薄っぺらなクリスマスキャロルの華やかさと、洋菓子店の前に立たされた等身大のチャチなサンタクロースの赤い服のせいだろう、仁平は酒を呷りながらふと「赤シャツ」のことを思い出した。「赤シャツ」というのは、『白鳥ホール』のあるM町界隈をうろつく地回りのあだ名である。仁平はこの男を憎く思っていた。二十六、七だろう。長身の、色白の細面の男で、ふぜいからはすし屋の板前の似合いそうな面構えである。現に、一時はすし屋の出前持ちをしていた記憶があった。が、今では職業も不詳で、ヤクザとの繋がりもあるらしく、そんな手合から一万円札を頭を下げつつ受け取っている現場を何度か目撃したことがあった。そう。「赤シャツ」はその男前を利用して、若い女店員やウエイトレスの、少しばかり目立つ器量の子を見つけ、引き抜く役割を担っているけはいであった。
 以前、仁平は『白鳥ホール』に入り立ての女店員が、「赤シャツ」に腰を抱かれてラブホテルの収まる路地から出てくるのを見かけたことがあった。その娘は、その日を境に店をやめた。数ヶ月後、「赤シャツ」と連れ立つ様を目の当たりにしたが、その時の娘の、人参色に染めたパーマや派手な服装が、仁平の目にはひどく不快に映ったものだ。もとより今風のファッションに身を包んださまに難癖つける義理でもないが、無理やりにむしり取られた娘花の不潔感が悲しかった。言うまでもなく、若い連中からは老い耄れの偏狭的道徳観だと一蹴されることだろう。ラ・ロシュフコーの言葉が思い出される……

 老人はよい教訓を言いたがるが、それは、もう悪い手本を示す時ではなくなったことを、ひそかに自慰するためである……

 たぶん、当の娘は、その不潔を自由と感じて、いっそ享受しているのだろう。垢抜けてはいなくとも、まだウブな清さを第一と考えるは、やはり肉体も精神も衰えた老境の通例なのかも知れないのだ。しかし、いくら思い直そうと試みても、仁平は美しさの基本は「清潔」にあると信じたいのだ。愛なんて糞を食らえ! 性愛こそ開放だ……そう言いたいのかも知れない。そのように、「赤シャツ」はその数週間後には別の女と戯れつつ、欲望の路地に消えていったのだ。
 『白鳥ホール』ではもう一人、「赤シャツ」に引き抜かれた娘がいた。今では「ナンパ」と言うのだろうが、まさしく「ガール ハント」の現場を目撃したものだ、1週間を待たずにその娘は店から消えた。そして、三人目にあの娘が狙われているかも知れない。しかし、あの娘だけは例外であって欲しいと仁平は強く望む。そう。赤シャツが厚かましく声を掛け始めてから数カ月になるが、当の娘は社交的笑顔で応じながらも、次の言葉を遮るふうに、いっそ不機嫌な表情のままにクルリと背中を向け、算盤で計算を始めるのだ。ご破算で願いましては……あんたなんかには興味がないの。さも、そう言いたげなそぶりなのだ。やはり、娘の心には、かの青年が宿っていると信じたいのだ。
 だからこそ、当の青年が姿を消したことが許せないのだ。娘に恋心を抱いていたことは、物書きの自尊心に賭けても断言できる。もしかしたら、赤シャツに脅されたのではないだろうか。いや、それ以上に、娘の内心を忖度するほどに心が痛む。もしや、からかわれた……などと思いはすまいか。そんな心の空隙を赤シャツにつかれるのを、仁平は激しく恐れた。もし、かの青年が姿なりとも見せてくれたら、あのしっかり者の娘のこと、赤シャツの誘惑など歯牙にもかけないだろうに……

 自分ではどうすることも出来ないそんな繰り言に頭を悩ませつつ、仁平の酒の手は知らず上がってゆく。居酒屋のオヤジに、窘(たしな)められるほどであった。ふん。ここでくたばられたら困るんだろう! 仁平は心で吐き捨てると、つい席を蹴る。
 寒風の中に踏み込む間際、店の鏡にあからさまに己の顔が映し出た。酒気にくぐもった、生気のない目。なんだか何時にも増して、老醜が仮面のように張り付いているようであった。

  もし、俺があの青年だったら……そうだろう?

 知らず、せん方無き願望が口をつく。ああ、あさましい。ちくしょうめ! 仁平は怒気を込めて、鏡の中の老い耄れに悪態をついた。
「この糞ジジィめ!」

 耳を切る冷たい風が吹きすさぶ。いっそ目も口も鼻も……腕も足も切り取られればいいと思う。外套だけになって部屋にたどり着くのも、一興だろう。時にすれ違う人間が、誰も自分より幸福に見える。仁平の足はブラブラと、道草を始めていた。人を避け、いつもは踏み込まない路地を曲がり、誰も通りそうにない暗がりを求める。
 ふと立ち止まり、あたりを伺ってみる。誰もいない。けはいすらない。仁平は目を閉じる。闇。唯一寛げる世界のようであった。酔余の戯れに、闇の中に雪を降らせてみる。音もなく降りしきる雪の中に、ぼんやり夏子の姿が見えるようであった。仁平は意識して背筋を伸ばし、そっとかそけき夏子を抱き寄せる。思い出の底で凍った夏子の身体が、仁平の心を冷やす。喜びもない代わりに苦痛もない、無の世界。雪に埋もれ、このままひっそり死ねたらいいと思う。同意を求めて夏子の顔を覗きこんでみたが、その顔はぼんやりと霞んでいる。目を顰めたとたん、夏子の模糊たる顔に、『白鳥ホール』の娘のくっきりとした笑顔が重なった。次の瞬間、凍った身体の芯が火照り、ぬくもりが凍えた心まで暖めたようであった。

 仁平は目を開けた。たちどころに幻は消え去り、ガード下の、風雨に打ちのめされた荒いコンクリートの壁が見えるだけであった。乾いた風が、夢の湿り気を吹き散らす。近くに止められた主不在の錆びついた自転車が、街の小骨のようにわだかまっている。
 仁平は自嘲をもって悲しみを押し殺し、身体を前に向ける。と、以前には手相見などが客待ちをしていたあたりに、一人の老人がうずくまっているのが見えた。ガード下は低く狭く、薄暗い。もっと広いガード下ならば、たぶん壁のシミとして見過ごしてしまうかも知れない。一瞬、肉体から離れた自分の魂が蹲っているように思えた。浮浪者だろうか。老人は薄汚いボロの上着を纏っただけで、ブルブルと身体を震わせている。つい近づくまでもなく、仁平はその老人に見覚えがあった。居酒屋に向かう途中の、洋菓子店の前でのことだ。等身大のサンタクロースの人形の着ている赤い外套を、むしり取ろうとしていたのだ。通行人に見とがめられ、むしり取れないと見るや、人形の担いでいた袋だけを手に、近くの子供に向かって「メリー クリスマス」と声を掛けたはず。もとより子供は呆気にとられ、手を引く母親も顔をそむけ、身体をそむけ、嫌悪と敵意むき出しに逃げ去った。
 老人はサンタクロースから奪い取った袋だけを後生大事に抱きしめ、ぼんやり震えながら蹲っているのだ。自己憐憫に呵まれていた仁平ながら、目の当たりにした老人の姿はそんな考えを吹き飛ばすに十分であった。それほど惨めに映ったのだ。仁平の身体は、耳と鼻の頭を除いて、カシミヤのオーバーコートのお陰で暖かであった。
「もし、あんた……」
 仁平は老人に声を掛けながら、その肩に手を置いた。朽ちた板きれのような感触。老人はピケ帽を深く被って目を隠し、立てた上着の襟で鼻と口を隠している。そのように表情をいっさい覗かせぬまま、錆びついた機械の部品を折るように顔をかすかに上向けるのに、
「あんた、この寒空に何をやっておるんです。手相見でもあるまいに……」
 隠れていた眼球がわずかな光を放つと、
「わしは手相見でも人相見でもない。魔法使いじゃ……」
「魔法使い……ですと?」
 老人の突拍子もない物言いに仁平は臆することもなく、むしろ酔いのゆとりが全身をくるみ込んでいるようであった。この老人はもしかしたら、サンタクロースに憧れていたのかも知れないと思い、
「あんた、もしやサンタではないのかね?」
 老人が黙しているのを幸いに、仁平は茶目っ気交じりに言葉を継いで、
「それにしてはトレードマークの白髭もないし。そんなにやせ細って……そう、あんたは案外、サンタではまく、サタンじゃないのかね?」
 老人の肩がかすかに揺れた。仁平の冗談に応ずるための、軽い笑いを装ったようにも思われた。ついで、低く声を発して、
「わしは、随分の歳に見えるじゃろう。あんなより、もっともっと歳に……。しかし、実はわしはついこの間生まれたばかりなんですぞ。なのに、もうこんなに老いぼれてしまった。なぜだとお思いかな?」
「はて……」
「わしが一番大切にしていることを、誰も信じてくれん。わしはもう長くは……」
 言いかけたのが激しく咳込むのに、
「しっかりしなされ!」
「いやな世の中じゃ。わしは子孫も作れなかった……」
「……」
「誰も信じてはくれん。だから、魔法も使えん……」
 老人が滅入るように言い放つのに、仁平はとむねを突かれる思いであった。そう。誰も信じない……と、仁平自身これまでの人生、幾度となく繰り返してきた文言であった。それは、夏子への思いとその面影だけで人生を流してしまった悔いである。ひ弱な温室育ちの心である。現代では育ちにくい、繊細すぎる魂である。仁平はすこし切なくなった。己の心情など一時忘れ、老人に素直に同情したのだ。つい力づける意味で、改めて老人の肩に手を置き、
「私は……あんたの大切にしておることを信じますよ!」
 強い断言の物言いに、老人の身体に若干の力が注入されたけはいであった。しかも、偽りとは対極の緊張感の電気が、老人の肩から仁平の手へ、そして心の深部へと伝わる手応えを覚えたのだ。
 老人はその崩れかけた体勢を整えると、かき抱いていた袋を持ち上げた。中にはたぶん、藁くずでも入っていたのだろう。見回すところに、掴みとったらしいやつが散乱しているのが窺えた。老人はおもむろに袋の口を開き、仁平の目の前に突き上げる。藁くずと丸めた古新聞以外見当たらない。
 老人がジッと仁平を見つめる。老人とは思えぬ、澄んだ眼が改めて輝きを増し、そのことは仁平の口にした「信じる」という一言への責任を求めているようであった。仁平も真摯に頷いて見せた。半分以上詰め物の抜かれたペチャンコの袋に、仁平はふと自分の心を重ね合わせたのだ。そう。見かけがどんなに見窄らしくとも、人間の心には掛け替えのない宝玉が秘められてしかるべきなのだ。
 老人は、仁平のそんな胸中を察するよう小さく頷くと、袋の口を両手でしっかりと閉じ、ついで精神でも統一するよう頭を落とし瞑目する。なにやら厳かな儀式のようでもあった。
 一分近くじっと俯いていた老人が、不意に頭を持ち上げると、袋を再び開き、手を中に入れ……てっきり、宝玉でも掴み出すようにその手を持ち上げる。節くれ立った手に掴まれていたのは、一掴みのなんの変哲もない藁くずであった。仁平は悲しかった。同時に、この老人はサンタクロースかも知れないという思いが突き上げてくる。老人は改めて、袋の中に手を忍ばせる。しかし、掴み出したものはやはり藁くずなのだ。老人はもう一度、手を袋に忍ばせる。小刻みに震える腕。仁平も緊張に包まれる。そう。この老人は絶対にサンタクロースなんだ……それは、ほとんど確信のようであった。老人の手が再度掴み取ったものを引き上げる。
 ああ。それは藁くずにはあらず……なんとも形容出来ぬほどに愛らしい、人形の頭が覗いたのだ。老人の目が、仁平に注がれる。どうだ……と言わんばかりに見開かれている。仁平にも、無邪気な子供にも似た感動が突き上げる。老人の身体全体から、満足感が漂ってくるのだ。その口元には笑みすら浮かび、老人の手は一気に生まれたての人形を引き上げる。
 ——思わず、絶句を禁じえない。引き出されたのは、胴体だけで手も足もない人形であった。それは老人のミスではなく、いっそ自分の責任のように仁平には思われるのだ。
「すまない……」
 思わずの謝罪を制するよう、老人は静かに話し出して、
「あんたは、信じてくれた。十分に、信じてくれた。わしが老いぼれすぎてしまっただけのこと。あんたには本当に感謝したい……」
 老人は重労働直後にも似て息を切らし、疲労困憊のさまが見て取れた。そして、手足のない人形を我が子のようにかき抱くと、前にも増してブルブルと震え出す。仁平はとっさにオーバーコートを脱ぐと、老人の背中にかけた。とたん、老人の震えがピタリと止み、
「ああ……なんて、なんて暖かい外套なんだ……」
 仁平はオーバーコートを脱いでも、寒いとは感じない。むしろ、相手に与えることのできるぬくもりを自分が持っていたことに満足であった。老人はしみじみと言葉を継いで、
「あんたは、なんていい人なんだ。お礼に、一つだけ願いを叶えよう……」
 襟を正したくなるような、神聖な物言いであった。仁平の頭の中に、『白鳥ホール』の娘の笑顔が浮かぶ。老人は仁平の掛けたオーバーコートで身体を包むと、わずかに顔を持ち上げる。右の目は靄がかかったように白濁していたが、残る左目は不思議なほどに澄み渡り、内側から湧き出すけはいの光が瞬いた。深く、切り込むような光。仁平の幼少時の記憶に残る、無垢な輝きのようであった。仁平の口元が、その星に願いを込めるよう蠢いて……

 仁平はいつになく酔っていた。オーバーコートと一緒に、お守りである大切な二通の手紙も失ってしまったのだが、そんなこと以上に、部屋に辿り着くまで、酔いともつかぬ心地よい幻を抱きしめ、心はいっそ暖かであった。
 夜更けから雪がちらついた。朝には消え去るであろう、夢の破片のようであった。

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