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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 かんざし(改訂版) 4章

       

       4章

 仁平は、久しぶりに夢を見た。たぶん、老境に達して以来初めてといっていいほどの、寝坊のせいでもあった。朝の光を避けるよう布団を頭まで被り、仁平はその夢を出し惜しみするようにゆっくりと、丹念に反芻し……
 そう。仁平は防空壕の中にいた。あたりはのし掛かるほどの暗闇なのに、そこが防空壕であることは分かっている。それでも、空襲の音は響かない。静けさが匂うような静寂に包まれている。仁平は胎児さながらに、身体を丸めている。不意に、防空壕が口を開き、定規で引かれたみたいな光が数条差し込んでくる。光の中に、一人の娘の姿が揺れている。仁平に呼びかける声が聞こえて、

 あら、まだそんな所にいらしたの? 戦争はもう終わっているのよ……仁平さん……

 娘は藍染めの浴衣掛けで、軽やかな足取りで仁平に近づくと、そっと手を取る。清水のように冷たい感触。夢の中で、仁平は自分が老人なのか若者なのか定かではなかった。じきに、仁平は娘に誘われるままに光の中に出た。
 一瞬、墓地に出たような気がして身を退きかけたが、よく見ればそこは戦前の銀座のようであった。足下に見る石畳も懐かしい。それでも、あたり一面、建物という建物に霜が降り、凍付いているのだ。しかも、早朝みたいに誰もいない。吐息は白いくせに、不思議と寒さは感じない。そう。娘の首筋は、ほんのり汗ばんでさえいるのだ。と、娘が仁平から手を離し、嗜(たしな)みのある裾捌きながらもシャキシャキと走り出す。そして次の瞬間、娘の身体がフワリと空に舞い上がったのだ。仁平はしばし呆気にとられ、ぼんやり眺めているしかない……

 仁平さん。早く、いらして! 楽しいわ。楽しい……

 娘の声が降り注ぐ。空には月も太陽もなく、一面空気が凍っているみたいに白い。仁平は娘を追って走る。そのとたん、自分の身体も羽毛みたいに軽くなり、フワッと浮き上がるのだ。まるで、肉体が消えてしまったような感触だ。娘の、無邪気な笑い声が凍った街に反響する。軽い。軽い。と仁平は思う。全ての重さをかなぐり捨てたみたいに、身体だけではなく、心も軽いのだ……

 夢から覚めてからも、仁平は空を漂う軽さを繰り返し噛みしめた。朝の光の蹂躙を恐れて、目はしゃにむに閉じたまま。それでも、夢に見た娘が誰であったかははっきりしないのだ。夏子のようでもあったし、『白鳥ホール』の娘のようでもあった。模糊とした映像を追い求めながらも、仁平は重荷を放擲したような軽さだけは感じ続けて……
 やがて、街の騒音が夢の被膜を破り……仁平はまどろみの子宮から這い出して……
 とたんに、
「軽い!」
 そう口に出した。そう。重荷を下ろした感触が、今でも続いているのだ。ふと……これが「死」なのかと肝を冷やし、悪夢を振り切る意気込みで弾みをつけて起き上がってみた。上半身を起こしたまま、仁平はしばし呆然とした。こんなに勢いよく起き上がるなんて、何年ぶりのことだろう。何気なく、自分の両手に視線を落としてみる。なんだか、二人羽織の余興でも演じている気分なのだ。そこに、皴一つない若い手を見たからだ。思わす、振り向いてみる。いや、振り向くまでもない。手は自分のものであった。頭が真空状態のままに、仁平は立ち上がると、洗面所の鏡に己の顔を写してみる。
 そう。仁平はそこに奇跡を見た。鏡の中には、二十五、六の青年の顔があったのだ。しかも、それが赤の他人なんぞではなく、紛れも無い自分の顔であることも確信できるのだ。試しに、頬に触れてみる。スベっとした、若い肌。思い切ってつねってやる。はっきりとした痛み。仁平はつねった部分を壊れ物のようにさすってから、思わず大声で叫んでいた。
「奇跡だ! 奇跡が起きたんだ!」
 身体を動かしてみる。初めは恐る恐る、それから激しく、ついには飛び跳ね、でんぐり返しを打ってみた。足が押し入れの戸に当たって、派手な音をたてる。その響きが仁平の奇声と重なって、得も言われぬ明るい和音を作る。てっきり、作為のないCmajor……。身体じゅうから新芽が吹き出しているみたいで、ムズムズと力が漲っているのだ。
 もしかしたら……自分は老いぼれになった夢を見ていたのだろか? 着替えをしながら、ぼんやりと考えてしまう。ズボンをベルトで締めてみると、裾がやけに短いのだ。老人になると身体が縮むというし、たぶん若返った分、骨も元来の剛直さを取り戻したのだろう……
 着替えを済ますと、顔を洗うのも忘れ、改めて鏡の中の若返った顔に見入った。夢ならば、覚めてくれるなと、声にも出して何度も繰り返す。今日の日付。周りのけしき。時系列に思い出す記憶。どこをどう検証しても、夢なんぞではあり得ない。その確信を上塗りするよう、うっすらと頭が痛んだ。どうやら軽い二日酔いのようであった。
 ふと、昨夜のガード下での一場が蘇る。そう。魔法使いと称する老人との出会い。やはり、サンタクロースなのだろうか? 酔いの弾みで、オーバーコートを気前よくくれてしまったことも思い出す。大切なお守りであった二通の手紙がそのポケットに入っていたことに、一瞬喪失感を覚えたが、即座に仁平は声に出してみる。
「なるほど。そうだったのか!」
 あのお守りを無くすことと引き換えに、自分は若返れたのだ。そんな理屈にもならぬ論理を単純に認め、いっそ明るく安心出来るようなのだ。
 お守りを失ったことには不思議と悔いはなく、かえって重荷を下ろし楽になったようにも思えるのだ。それにしても、どんな内容の手紙だったのだろうか? 人事のように考えてみる。細かい文面は失念していたが、夏子からの手紙には、「かんざし」という言葉が使われていたような気がするのだ。仁平が当時書いていた小説からの引用のように思える。確か「簪」の字ではなく「髪刺し」と綴ったはずで、何か象徴的な意味合いを込めたようだが、当の作品こそ夢物語のようで曖昧であった。 

 冬季はいつもお湯で洗顔していた仁平ではあったが、若い掌はこれを拒絶しているみたいで、水道の蛇口からの冷水をジャブジャブと顔に叩きつけてみた。その後タオルで拭うと、むしろ顔が火照り、「血気」という言葉が浮かんでくる。歯ブラシを使うと、今では当然と思えるのだが、外れていた歯のことごとくが生えそろっている。それでも、力を入れると奥歯が痛んだ。鏡に顔を近づけて確かめると、他にも虫歯があるようだ。思えば、歯が悪いのは子供の頃からの常態であった。そのことが、いっそ微笑みを誘うのだ。髪にも当然のごとく白髪はなく、うんざりするくらい量を増し、ブラシで撫で付けてもなかなか元に戻らない寝癖には、頼もしい生命力すら見てとれた。
 仁平は随分長い時間鏡に向かい、顔を右に向けたり左に向けたり、ちょっと離れたり、思い切り近づいたりを繰り返した。ヘアスタイルもオールバックを下ろし、右から分けたり左から分けたり……結局はかの青年を真似て、センター分けに落ち着いた。改めて気取ってみると、なかなかの二枚目だし、ちょっと知性も感じられる。喜びが加わっているせいだろう、自身の若い頃より俄然明るい印象なのだ。
 ためつすがめつあまり長いこと鏡を覗き込んでいる自分に気づき、まるで自惚れやの女じゃないかと、仁平は思いつい赤面しそうなほどに恥ずかしい。誰かに見られているような気がして、あたりを見回してみる。なんだか、祖父の部屋に闖入した孫のようであった。出し抜けに、『白鳥ホール』の娘の顔が彷彿とする。心がときめいた。それは、老人という仲介を挟まない、生のときめきであった。
 娘を見つめていた大学生のことも、ちょっと恋敵として思い起こしてみる。あの青年の方が二枚目かもしれないが、時に見せた陰気な目つきは自分にはないと、いささか優越してみる。それでも、スリムジーンズの当の青年と比較検証しているうちに、ふと仁平は自分の服装のことが気になってくる。ハンガーに掛かった抜け殻に目を転じ、つい吹き出してしまう。いい若いものがこんな古風な服では、ほとんどコントの世界だろう。もとより、今の基準では若返ったとしても小柄な仁平ではあったが、足はまっすぐに伸びていたし、肩も張っている。そう。ここは一つ、あの青年の服装を参考にするのも一興だろう。心わくわくと、いても立ってもいられぬ気分なのだ。

 朝食も忘れ。とりあえずステッキだけは放擲したスーツ姿で、仁平は表に出た。踏みしめる大地に、生の実感が感じられる。吸い込む空気の量にして、野放図なくらいにでかい気がする。ふと、近所の者になんと取り繕うべきか思案したが、運良く誰にも出くわさなかった。

 金曜日であった。『白鳥ホール』の娘の定休日である。仁平はとりあえず銀行で預金を下ろすと、思い切ってジーンズショップに飛び込んだ。種類の多さに初めは面食らったが、なに、元来オシャレに関しては半可通ではない。安物の仕立ての悪さや生地の手触りで良否の判定は即座に知れた。それでも、仁平の珍妙な出で立ち……年齢不相応の上着や、つんつるてんのズボンを横目に何やら笑いを堪えているふうの店員には照れるしかなかった。
 サイズがインチ単位で見当つけかねたが、細いやつから三本試着してみて、いちばんウエストの細いやつがよさそうであった。それでも、タックが入っていないせいか腰がやたらと締めつけられ、若い人も大変だろう……と、老人風がぶり返し、そのことが逆に苦笑を誘う。試着室の鏡の前で老人の尻尾を試みに探してみたが、掻い暮れ見当たらない。とりあえず、丈を少し詰めてもらい、ついでにセーターから上着、靴下まで、若者風の色とデザインをコーディネートしてみたが、やはりオシャレの下地のお陰か、我ながらセンスの良さににんまりしたほどであった。
 一度、若者風を気取ってみれば、いっそ度胸もついてくるもので、スニーカーも買い、ついには下着類までと荷物も多くなり、締めくくりには床屋に立ち寄ってヘアスタイルも今風に整えてもらった。
 重い荷物も苦にはならず、帰りにはやけに空腹感に襲われた。その感覚も叉、若く健康である証のようで、改めて浮き浮きしてくるのが実感出来るのだ。定食屋に入ると、普段は食指の動かないカツ丼を注文し、しかもごく自然に飯を大盛りにしている自分が叉可笑しかった。それでも、奥歯で思い切り噛みしめて、つい歯が痛んだ。そうは言っても、ロースの脂身を美味いと味覚出来る自分に満足であった。
 念のため『白鳥ホール』を覗いてみたが、やはり件の娘はいない。それでも仁平は家に辿り着くまで、心の高揚を抑えることが出来なかった。薄着でも、寒さなんかへっちゃらなこと。自分でも呆れるほどの食欲。変わりかけた信号に駆け出しても、息の切れないこと。そんな自分がとにかく嬉しいのだ。

 部屋に戻ると、仁平はさっそく買ってきた服をとっかえひっかえ、一人ぽっちのファッションショーであった。顔も体型も若いのだし、コーディネートにミスがあるとも思えないのに、どうもしっくりこない。初めは足の長さかとも悄気かけたが、そこはオシャレの達人と思い直してみればすぐに合点がいった。たぷん、ジーンズの新品がたたってゴワゴワしすぎて体型に張り付いていないせいだろう。そう。結城紬と同じなのかも知れないのだ。我ながら古いことを思いつくものだと、またぞろニタつきながらも、江戸の粋人が仕立て下ろしの結城で外を歩くのを野暮と敬遠するのと同じ理屈なんだと理解した。ここは一つ、江戸の粋人を真似てとばかり、仁平はその夜、ジーンズを穿いたまま床につくことにした。相変わらず腰を締めつけられてなかなか眠りにつけなかったが、『白鳥ホール』の娘をあからさまに抱きしめている所を想像し、込み上げてくる情念に改めて蘇った力のほども確信したしだいであった。
 それでも、一頻りの妄想のあと、仁平に一条の不安が切り込んだ。はたして、自分はいつまでこうやって若返っていられるのだろう? 魔法使いと称する老人に会ったことはしかと覚えてはいるが、いかんせん酔余の朦朧、どんな内容の取引で自分が若返られたのか、サッパリ記憶が抜け落ちているのだ。
 が、そうだろうか……と、仁平は眠りに落ちる直前に少し冷静になった。そして、軽薄に浮かれている自分を叱りつけた。そう。『白鳥ホール』の娘を綺麗だと思う心は、決して恋人にしたいとか、いわんや結ばれたいなぞという俗念ではなかったはずだ。あの娘の、健気な清潔さを大切にしたかったからではないのか。例の大学生の一件で傷ついてはいないかという親心。「赤シャツ」の毒牙にかかるのを恐れる……そんな気持ちからではなかったのか……
 魂の中に、改めて老人の分別を見いだしながらも、夢と現のあわいにあって、仁平はやはり娘のぬくもりを夢想せずにはいられなかった。

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