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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 かんざし(改訂版) 5章

       

        5章

 明けて、午後四時に仁平は家を出た。『白鳥ホール』の娘は五時からの遅番なのだ。若返った自分をもって、はせ参じる気構えであった。
 扉の鍵を締めていると、ちょうど筋向かいのばあさんが通り掛かる。ちょっと胡散臭そうにねめつけてきたが、当然の仕儀だろう。ここは一つ、誤魔化すよりも、若者としての話しかたの訓練にもなるかと意を決し、とりあえずは軽い会釈で様子を見る。ばあさんの方も腰を伸しつつ立ち止まると、
「あら、あんた臼井さんのお知り合いの方?」
 一人暮らしの老人宅とあれば、不審に思うのも当然だろう。仁平は機転をきかせて、
「はい。遠縁の者なんですけど、しばらく療養に行くもので、僕がその間ここにいるようにって、頼まれまして……」
「ああ、親戚の方。そういえば、どことなく似てるわね……」
「はあ……よく言われます……」
 似ているのも当然、本人なんだからと、仁平はくすぐったい思いであった。それにしても、外見が若返ってみれば、声の調子も含め、話し方もそれなりにふさわしくなるものだと我ながら感心していると、
「でも、療養だなんて、全然聞いていなかったわねえ。確か、心臓がお悪いとか?」
「あ、どうも。あの人……ちょっと偏屈なトコがあって。でも身体の方はそんなたいしたことはないんです。ま、気晴らしみたいなもんです……」

 仁平は、長話になりそうなけはいを愛想笑いで誤魔化し、『白鳥ホール』へ向けて歩度を速めた。知らず、スイングが頭の中で鳴り響く。エドモンド・ホールの軽やかなクラリネットに合わせるよう、歩調もすこぶる快調であった。とにかく、前進しているんだ……という意気込みが、ふつふつと込み上げてくるのだ。
 途中、春になると八重桜が自慢らしい、都会としては広い庭の家がある。石塀ぞいの十二月の裸木に、ポッと花の色を見たようであった。とたんに、猫ほどの大きさの犬にキャンキャンほえ立てられる。犬との相性の悪さは今に始まったことではない。慌てて、身を翻すと、飼い主らしい小学五、六年生ほどの女の子が、大げさね……といった感じで微笑みかけてくる。こちらも笑顔で返し、太息をついて顔を振り上げると、桜の木のある家の真向かいのボロアパートが目に飛び込んだ。二階の窓が大きく開いていて、真新しいブルーのカーテンが揺れている。中では初々しい新妻が部屋の掃除でもしているのかと、仁平の心は優しくなった。姉さんかぶりが、チラとほの見えそうでもある。それだけのことで、ボロアパート全体が、今の仁平の胸の中のようにほんのりとぬくもっているように感じられるのだ。

 『白鳥ホール』で、仁平は玉を取る気もなく漫然と時を過ごした。娘が出勤する五時までがひどく長い時間のようで、なんだか病院の待合室にでもいるような緊張感に包まれた。
 娘はいつもに変わらず、五時五分ほど前に姿を現し、持ち場についた。初めはちょっと沈んだ面持ちに見えたが、新米らしい女店員に何やら指図を与えながら笑顔を取り繕っていた。娘は、一番の先輩格というわけであった。
 景品交換所の近くには、雑誌などが置かれた棚がある。件の大学生がよくそのあたりで雑誌に目を通す振りをしながら、オズオズと娘の方に視線を送っていたことを仁平は思い出した。
 思い切って、仁平もそのあたりに立ってみる。そして、普段は見向きもしなかった漫画週刊誌を手に、さりげなく娘の方に目を向けてみた。確かに、シャイな男の考えそうな行為だと思う。娘はちょうど両替機の鍵を持って、持ち場を離れる所であった。なんとはなしに互いの顔が向き合い、娘はそのまま仁平の近くを通り過ぎた。とたんに、仁平の心臓が高まった。出し抜けの羞恥につい週刊誌に目を落とすと、漫画の女の子が何やら悪さでもされたらしく、「キャッ!」という顔つきで憤慨していた。
 思えば、それまでの仁平は娘を見る事に、なんの気恥ずかしさも感じた覚えはなかった。もとより厚かましさなんぞではなく、あくまでも自分は老人であり、第三者の眼差しであった。しかし、今、若返った身を持ってみれば、いきなり黒子の衣装を脱がされ、主役として舞台の上に突き出された思いなのだ。自意識過剰だぞ。と、自分に言い聞かせながらも、押し寄せる緊張感は尋常ではない。仁平は何度か、娘をしっかりと見詰めようと試みたのだが、体中がしゃちほこ張って思うに任せない。それは、羞恥でも道徳律でもなさそうであった。そう。若者という仮面で娘を見つめようする、疚しさのようであった。まだ、本当の意味で若返ったという事実を自ら認めていないというのが、その日仁平の下した結論であった。

 部屋に戻ると、仁平は心を落ち着ける意味でエドモンド・ホールのレコードをかけ、念入りに淹れたちょっと濃いめのコーヒーを啜りながら、改めて鏡に見入ってみた。自分が若く見えるのは、何も扮装や美容術ではないのだ。確実に一つの奇跡が起き、紛れもない青年に生まれ変わったのだ。そう。自分は小説家を志す、一人の青年なのだ。『白鳥ホール』の娘に近づくのに、何の不都合があるのか。
 仁平は万年筆をとると、原稿用紙に「奇跡」という題を大書し、「臼井仁」とペンネームも書き入れた。が、すぐに「奇跡」の二文字を末梢する。字が見えなくなるまで塗りつぶしてやる。そして、題名を保留したまま、娘との出会いについて書き始めてみた。もとより眼差しは仁平のものでありながら、その行動はかの大学生になぞらえた。加えて、普段の三人称を廃して、一人称をもって綴ることにしたのだ。作品がどのような展開を辿るのかは、作者本人にも分からない。それは仁平自身と娘との、謎の明日でもあった。
 作品は順調な滑り出しのようであった。一つには取り戻した若さの無謀でもあり、一つには書くという忘れかけていた喜びの再発見でもあった。

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