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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 かんざし(改訂版) 2章

       
      

       2章


 仁平が『白鳥ホール』の娘に特別の思いを寄せ始めたのは、半年ほど前からのことであった。その頃から額を隠していた前髪が横に流れ、柳の葉のような形のよい眉が見え始めたのだ。なよやかな、手招きにも似たそよ風が吹き上がったようであった。
 その謂われが、一人の学生風の青年にあると仁平は直覚した。そう。確かに、その青年が娘に視線を向け始めてから、娘の蕾は春の吐息を吹きかけられたけはいであった。
 当の青年は、仁平の目には大層誠実そうに映り、ギターケースとスリムなジーンズがとても似合っていた。二人がそれとなく視線を合わせあっている様を傍目に、快さが吹き抜ける。細面の、繊細なインテリ風の面輪に、仁平は時に、若かりし当時の自分を重ね合わせることもあった。
 その頃から、娘は俄然輝きを増したのだ。それまでの、ちょっと不貞腐れたような暗いイメージの薄皮がむけ、いくつもの愛らしい表情が頬をくるむ。
 一度、棚の上の景品を仁平が取り損ねて落としそうになった時、娘がふといたずらっぽい笑顔を送ってくれたことがあった。それは、当の娘の持っている最も美しい表情の一つであった。その笑顔はちょっと剽(ひょう)げた格好になってしまった仁平に向けられてはいたが、実はすぐ近くで景品替えを待っている件の青年に向けられてのものであることを仁平は即座に了解した。……わたしって、キレイでしょ? さもそう言いたげな……娘の秘めた、健気な矜持のようであった。恥じらいと傲(おご)りのかもす、娘花なんだと仁平は思う。思わず、賛嘆の微笑を返した仁平に反し、主役であるはずの青年の方は、なんだか照れ隠しに顔を俯ける黒子のようであった。

 仁平はそんな二人に、清々しいロマンの幕開けを期待していたのだ。同時に、仁平自身久しぶりに原稿用紙にペンを走らせ始めた。娘と青年との、恋物語が綴れそうに思えたのだ。仁平は、お芝居の観客みたいに、幕がかわり、早く二人が言葉を交わしあい、恋仲になることを期待した。どこからどう見ても、似合いのカップルなのだ。
 しかし、仁平のそんな浮き浮きとした思いとは裏腹に、二人はいつまでたってもその距離を縮めようとはしないのだ。それは、仁平のペンの渋滞でもあった。曲がりなりにも文学を志してきた身、幾分なりとも人を見る目は備わっているという自負もあった。そう。青年の眼差しには明らかな打算抜きの情熱があったし、娘にもそれに応えんとする必死さが感じられたのだ。青年は、その整った容姿とは裏腹に、あまりにも内気なタチなのだろうか。娘の方はそんなけしきを感じ取ったごとく、自ら不器用ながらも切っ掛けを作ろうとあぐねているようにも見えるのだ。今ならいいわよ……。娘の、そんな囁きすら聞こえそうだというのに、対する青年は含羞みと、それを韜晦するような、いっそ冷たい表情を見せる時もあった。その冷たさこそ、君を意識してるんだ……という青年の叫びであることを仁平は理解出来る。しかし、当の娘にそれを期待する方が間違っているのだろう。娘の開きかけた蕾が、一つの頂点を境に萎み始め、どこか僻みこんクスミを見せ始めたのだ。
 そして、ある日、主役の一人たる青年が、ブッツリと『白鳥ホール』に姿を見せなくなった……
 
 娘はロマンの舞台が進捗していた当初、唯一こころを許しているいるらしい同僚の一人から青年のことでずいぶんと冷やかされているようであった。当の青年が入店するのを、指でつついて教えたり、子細らしく髪を整えてあげたりと……
 しかし、青年がパタリと姿を見せなくなってからというもの、娘の周囲はどこか白々とした空気が漂い始めていた。もとより娘の方は素知らぬ風を装ってはいたが、作り笑顔は強ばり、以前の僻みこんだ暗さに舞い戻った感があった。そのことは、仁平のペンの動きをも止めた。もとより架空のお話と開き直り、当の青年を自分になぞらえてはみても、架空の登場人物は人形のように動かない。原稿用紙の升目は、まるで魂の閉じこめられた無限に続く牢獄のようであった。一行だに進まぬ作業を前に、煙草の吸い殻だけが虚しい山をなす。文机の前に座ること自体が、苦痛なのだ。創作とは、ひたすら待つこと。そう思い返しても、それに耐える粘り強さも希薄になってゆく。集中力も持続してはくれないのだ。情熱の空回りは、ひたすら仁平に徒労の残滓を積み重ねるに似た。
 情熱の歯車が回るには、自分の肉体はあまりにも皴が入り過ぎているのだろう。表面上のダンディズムは、いっそ浅ましい虚飾ではないのか。自分よりも年上でありながら矍鑠(かくしゃく)とした政治家や、エネルギッシュな俳優たちは精神だけではなく、肉体も強堅なのだろうと仁平は羨んだ。
 『白鳥ホール』の娘を見ては折れかけた意志を逆手に握り、それでも夜がふけるにつれ、絶望へと繋がる憐憫の小径を、儚い夢に向かって歩むことになる。そのことは、小説を書くこと以上の、娘との架空の恋を夢想しては諦める……等活地獄のようであった。

 『白鳥ホール』から青年が姿を消してから……数週間が過ぎた。
 娘の顔にうっすら、諦めと、悲しみの薄化粧がほどこされたようであった。

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