(再掲)相思花
彼岸花は好きな花であると同時に、僕にとっては「不吉」のイメージが纏いついている。
もう随分昔の話だが、家族に頼まれ、祖父(僕が生まれた頃にはとうに故人)の墓参りをした時のことだ。墓標の脇の石組みの隙間から彼岸花が伸び、大輪の深紅の花を咲かせていたのである。背筋がゾッとするほどの美しさ! もとより墓参りは何度も経験していたが、かかる光景に出くわしのは初めてであった。
寝たきりになっていた祖母が死んだのは、その直後だったのだ。
思えば、彼岸花には「曼珠沙華」等いろいろな名称があるが、後年この花のことを韓国の方で「相思花」と呼ぶらしいことを知って、衝撃を覚えたものだ。
相思花……花は葉を思い、葉は花を思うが、決して出会うことはない。なんとも悲しい謂われである。
もしかしたら泉下の祖父は、長いこと別れていた祖母に会いたかったのだろうか?
この祖父というのは文筆業で、週刊誌的な記事やオペラに関するもの、有名劇場の由来などを纏めていたし、クラシック畑の音楽家を日本に招く仕事などにも携わって、それなりに金回りが良かったらしい。なにせ、品川の御殿山に、庭が二つもあるという豪邸を構えていたのだ。
祖母とは、一目ぼれ的な衝動で結婚したらしいが……なんと、新婚まもなくにして、かく祖母に言い放ったそうだ。
「お前、歯並びが悪いから、全部抜け」
マジな話である。確かに、写真で見る限り祖母はかなり美形ではあったと思うが、歯並びが唯一の欠点であったらしい。だからと言って、今ではとても信じられぬ言い草ながら……いや、当時にしてそうだろうが……その時、祖母はいっさい躊躇うこともなく答えたという。
「はい。分かりました」
まだ若い身空だというに、祖母はあっさりと全ての歯(虫歯一つない健全な)を抜き去ったらしい。
もとより無謀の命を下したのだから、祖父にも考えはあったのだろう。単に、歯科医に総入れ歯を作らせる……というレベルではない。大方、「カネに糸目はつけぬ」とでも豪語したようで、全国探し回って、当代で考えうる最高レベルの入れ歯を作らせたらしい。
実は後年、その入れ歯の残骸が出てきたのだが……その精巧さは、たぶん現代の歯科技工師でも腰を抜かすだろう。
素材が何であったかは判然としないが、信じられぬ薄さで、しかも上顎の細かい襞まで再現され、歯茎の色合い、歯の形状……ほとんど芸術作品なのだ。
たぶん、カネに糸目ははったりではなかったらしく、これは僕の予測だが、単なる歯科の領分を越えて、伝統工芸の世界の職人あたりも動員したのではないだろうか?
希代の整形むなしく、祖父は四十代の若さで心臓弁膜症で他界し、祖母は以後、合わなくなった入れ歯を外した後は、既存の入れ歯を拒絶し、後の生涯を歯茎だけで過ごしたのだ。
祖父は生前亭主関白はなはだしく、妾(めかけ)等も作ったらしいが、死を悟った時……妾宅から祖母の元に帰り、その腕に抱かれて息を引き取ったという。
現代では考えられないエピソードに彩られているが、すさまじい愛情物語と言えそうだ。
あの日、相思花を、愛の炎(ほむら)のごとく咲き狂わせ、祖父は祖母を呼び寄せたのだろうか?
「お前、そろそろこっちに来いよ……」
祖父と祖母の眠る泉下ではきっと、花と葉を共に身に纏った、奇跡の曼珠沙華が咲いていることだろう……