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責任感と母性と包容力と正義感が余ってたのでもらってください。


ありあまるとは、『必要以上にたくさんある。余るほどある』ということらしい。必要以上というのは、ちょうど良くないということですね。余った分は、どこへ行ってしまうんでしょうか。
余るといえば、小学校の時の割り算の答えで『あまり3』というのを『・・・3』と表したんじゃなかったっけ?割り切れるために余ってしまった3は、必要ないものみたいで行き場がないなと思っていた。
・・・といえば、大人になってから察しての意味で使われる三点リーダー《 …  》を思い出した。『問題なけばそれで構いませんが……』きっとこの三点リーダーの中には、ありあまるほどの気持ちが詰まりまくっている。最近では、三点リーダー症候群なんて病気もあるらしい…… 。こわいこわい。
食品ロスなんて言われる世の中で祖父母の家に行った時のご馳走の数々もきっとありあまるほどの愛。余ってしまった食事を祖父母は、冷凍庫を駆使して時間をかけて、一度冷めた『自分たちの愛』を消費する。
ありあまる『あまり』の部分は、扱いづらい。

ありあまる責任感

『助けて』という人には、手を差し伸べたいし『困っている』と言われると解決をしたくなる。もっと良くなるように、もっと楽になるように、もっと幸せになるように。そう思って色々考える。お願いされてるわけでもないのに、会社の花に水をやり散らかったゴミをたまにまとめたりしてカレンダーも変えたりする。
それは、ありあまる責任感からきている。そしてみんな前向きに幸せになりたいと思っているはずだという全く根拠のない自信から成り立っている。幸せの基準は、人それぞれなのに。
相談されると何でも真剣に考えてアドバイスする。
なのに本当に大切な結婚式には呼ばれなかったりするのだ。
結婚式に呼ばれるのは、相談をずっと聞いてくれて同情してくれる人なのだ。
自分がそうなので誰かに相談する時は、何か解決に向けて動いてくれるのだと信じてしまう。でも世の中の相談の大半は、聞いて同感して大変だねっていうということで成り立っていた。
『程よい距離感』それが長く仲良くいられる方法なのだもの。世の中の人が話を聞いてくれるのは、自分に関係ないから頷けるし、関係ないから大変だねっていう事ができるし、程よい距離というものが自分が楽しく過ごせるための唯一の方法だって知ってるから。
それ以上近づきすぎると鬱陶しくなったりめんどくさくなったりするんだもの。そして結婚式に呼ばれない。←しつこい(笑
上司が間違ってるとわかっていても縦に首を振るのが上手に生きていく方法なのだ。正しいも一生懸命も努力が報われるも、正解じゃない。
私はそのありあまる責任感で自分の居場所を確保してるつもりなのかもしれない。でもそれは、とても周りから都合のいい人としての場所になっているのかもしれない。あの人に相談すれば解決しといてくれるわよと周りは甘えていることに自覚なくお願いをしてくる。

仕事も恋愛も20代のうちは100%で注いだ方がいいと私は、思っている。それが30代からの自分に繋がるし30代で100%出し始めるより効率的だから。だけどどこかでアップデートしないと有り余ってしまう。

ありあまる母性

ネギの根っこを育て始めた。楽しくて豆苗を育てる為に買ってしまった。今まで命あるものを育てるなんて責任が持てないし正直興味がなかったのにと自分の変化にびっくりした。何かを育てるっていうのは、子供ができてから生まれる感情かと思っていたけれど人間に初めから組み込まれている感情なんだと思った。
そうやって考えると世の中は育てるものに溢れている事に気づいてしまった。島を作るという某有名ゲームやモンスター系のゲーム、アイドルのファンは、推しを育てることに必死だ。
映画の主人公は、必ず何かの困難を乗り越え成長していく。私は、それを見ているだけで満足だったのにある一定まで来ると、映画の主人公が成長するのを見るだけでは治らなくなる。触発され溢れ出した母性は、現実にネギと豆苗を育てるという行為に変わったのかもしれない。これは母性って言葉に近いなと思った。
ネギや豆苗を育ててみて思ったんだけど『幸せになって欲しい《→つまり美味しく食べてあげたい》』と思うことはなく、とにかく育てたいの気持ちが強いことに気づいた。もし子育ての根本にこの子を育てたいという気持ちが隠れているのであればなかなか厄介だなと思った。子離れ私には、できそうもない。だってネギ離れすらできないのだもの。このありあまった母性は、行き場がなくもう割り切って何か新たなものを育てることしかないと思い今年は、エニシだという花を買って育て始めてみた。まだ動物を買えるほど自分の母性の持続性に、自信がないから。


ありあまる包容力

最近恋愛ドラマを見るのが結構辛い。多分韓国ドラマは、見ることができないだろうと初めから手をつけてない。週に1度たった1時間弱なのにある時からみた後の疲れがどっと来るようになってきたんだ。なので疲れの原因を探してみた。
気づけば横綱が年下になり、引退するプロサッカー選手が年下になり監督が同級生になり始めて、恋愛ドラマの主人公も明らかに年下になっていた。感情移入できるのが主人公から変化して、それを取り巻くOL1になってきたのだ。主人公や主人公の両親などになれるならまだいいがOL1目線から見る恋愛ドラマは、何も報われることがなく疲れるだけなのだと気づいてしまった。
私の恋心はどこにいってしまったんだろう。OL1の良いところは、達観しているところだったりする。多くを求めず、多くを語らず、多く出演しない。そしてそこにあるのは、ありあまる包容力。自分だって幸せじゃないのに主人公の為に話を聞きアドバイスをし応援する。それでいて主人公の心からの相談相手は、昔からの親友だったりするのだ。そりゃ疲れるわ。その包容力あると疲れるだけだわ。そんな目線で自分の中の有り余らせてる包容力がドラマの中で簡単に消費されていくとそりゃ恋愛ドラマ疲れるわ。

ありあまる正義感

世界的伝染病蔓延の中旅行に行くだなんて良くないわ。
こんなテレビ教育上悪いじゃない
妊婦が立ってるのにあの人席を譲らないなんて!

でももしかすると      

余命宣告を受け残りの数ヶ月の人生の中での旅行かもしれないし
そのテレビは、一生懸命たくさんの人が関わって作った結晶で
席を譲らなかった人は、難病を抱えてるかもしれない

世の中には、このありあまる正義感があふれている。ありあまる正義は、平等なふりをして誰かの為なふりをしている。けれど全くそうではなくて目に見える可哀想を助け自分を保つ。誰かを悪者にしないと自分がそっち側ではないと確認できないような不安な世の中だから。そして自分の中の悔しいがわがままのように見えて、それを発散させるために誰かを非難する。実は羨ましいのだけれど素直にそういえない。旅行もテレビの世界も席に座ってるのも。この正義感の有り余ったものは、『不安』と『悔しい』という気持ちなのだ。もっと素直に不安だなとか羨ましいなぁということができたならきっとこの正義感は、有り余らない気がする。


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