第8回「神となったディエゴ・マラドーナ背番号10は永遠に」
第8回「心の中で永遠に…ディエゴ…」
2020年11月25日に逝去したサッカー史上最高の選手の1人である、「ディエゴ・マラドーナ」について、急遽「アーセナルの選手名鑑」をすっとばして哀悼の意を表して記事を書きたいと思います。
「Diego Maradona#10とは」
「サッカー選手と言えば?」の問いに対して、現在の多くの人は「C・ロナウド」「メッシ」「ネイマール」と言うでしょう。その彼らにとっての大スターであり、憧れであったのが「Diego Maradona#10」(ディエゴ・マラドーナ)です。「10番」をサッカーのエースナンバーのイメージを植え付けた史上最高の選手です。
僕にとって、「ディエゴ・マラドーナ」は動画の中の偉人でした。
サッカー小僧なら1度は見たことのあるはずの「‘86年WCメキシコ大会」。
そうその大会が彼がサッカー史の伝説となった大会です。
「‘86WCメキシコ大会の栄光」
同大会は「ディエゴ・マラドーナ」の大会と記憶されています。
チーム15得点のうち5ゴール5アシストを記録しており、約10万人の観客で一杯になったアステカスタジアム全員を魅了しました。ファイナルでもブルチャガの決勝点のアシストも彼からでした。アルゼンチンは当時イギリスとのフォークランド紛争で敗北しており、サッカーではイングランドに勝利し、同国史上2度目の優勝を果たしたことで「ディエゴ・マラドーナ」を神格化し、称え、勝利の美酒に酔いしれたのです。
「神の手」
それは、準々決勝vsイングランド戦に起きた出来事です。
後半開始早々、PA内に高く上がったボールに対して、マラドーナと相手GKが同時に飛び上がりました。身長の低いマラドーナがジャンプしたGKに競り勝ってボールに触れることが出来ないと誰もが、そう思ったその瞬間には、なぜかボールはゴールの中に、転々と転がり込んだのです。その時にマラドーナは「神の手」と呼ばれることになる行為をやってのけたのです。実は、彼はジャンプと同時に振り上げた手でボールを叩き、相手GKに競り勝ったように見せ、あたかもヘディングシュートを決めたかのようにピッチ上を駆け周りました。それはそれはイングランド代表は猛抗議しましたが、ラインズマン(線審)もレフェリー(主審)もちょうどブラインドの位置にいたことからゴールとして認められてしまったのです。
それから「手」を使ってゴールに結びつけるプレーを「神の手」とメディアが取り上げるようになりました。しかし、「マラドーナ」本人は、
というニュアンスの発言をしています。実際に’10WC南アフリカ大会ブラジルvsコートジボワールにおいてブラジル代表L・ファビアーノ#9(当時セビージャ)が手を使いゴールを決めました。しかし、マラドーナは、「あれは神の手ではなく【彼の手】だ」と言い放ちました。
「5人抜き」
この伝説的なプレーも「神の手」と同じく’86WCメキシコ大会準々決勝vsイングランド相手に決めたシーンです。結論から言うと、ハーフウェイラインから1人でドリブルして4人を抜き、最後にはGKを抜き去ってゴールにパスしました。イングランド誌が定めるWC史上最高のゴールとされています。
初めて見た時の衝撃は今でも忘れません。「サッカーは11人でするものだ。」と常々、言われ続けてきました。しかし、「マラドーナ」は良い意味で1人でサッカーをしてゴールを決めました。その常識をギリギリ映像があるくらいの大昔にぶち壊されたのです。驚きなのが、大技のフェイントやテクニックを見せつけるようなドリブルではなく、しっかりと、ドリブルコースを事前に思い描いたかの様に、スピードの緩急、タイミングで抜き去っていたのです。
現在は、守備戦術が完成しつつあり、スポーツ科学が取り入れられた現在では、合理的な判断が求められるために、再現はほぼ不可能です。と言いたいところですが、「マラドーナの後継者レオ・メッシ」がラ・リーガで再現してしまいました。WCとリーグ戦と舞台は違うものの、2007年当時メッシは19歳でヘタフェ相手に12秒で57m間にいる5人を抜き去ったのです。アルゼンチンの同胞である「マラドーナの後継者」とメッシが呼ばれる所以は、国籍だけでなく「5人抜きで」共通していたのです。
「マラドーナと薬物問題」
悲しいことに、彼は薬物使用問題で3度も長期の出場停止を受けています。コカインでは「‘91年ナポリ時代」に不正使用が発覚し、彼は、「バルセロナ時代(’82~)」から使用しているとも告白し、世界を驚かしました。また、‘94WCアメリカ大会でも大会期間中に不正薬物使用が発覚し、大会から追放、代表引退の引き金となってしまった。選手として晩年である’97にも愛するクラブ「ボカジュニアーズ」で使用が発覚し、出場停止に追い込まれました。彼自身の身体はもはやアスリートではなく、ボロボロでした。怪我がちで体重増加も納得できます。
「愛する第2の故郷ナポリ」
神の子がイタリア南部のクラブに舞い降りたのは‘84年であり、当時史上最高額の1300万$支払われました。移籍当時、ナポリは毎年残留争いを繰り広げており、キングとして迎え入れられました。86-87シーズンには遂に、セリエAとコッパ・イタリアの2冠を達成します。そして南部のクラブで史上初めての2冠達成でした。イタリアで蔓延する差別は当時から根強く、南部ナポリは北部の強豪(ユーべ、インテル、ミラン、ローマ)から侮辱され、コンプレックスな歴史を持っていました。また、88-89シーズンにはUEFAカップ(現EL)優勝に導き、翌年89-90シーズンはセリエAで2度目の優勝を飾りました。後にも先にもナポリがセリエAで優勝したのはこの2度のみであり、欧州タイトルもマラドーナ在籍期のみです。その栄光に敬意を表して、ナポリはエースナンバー「No.10」を永久欠番としました。熱狂的で陽気な南部ナポリ人の間でカルト的なヒーローとして、街全体から愛され、まるで一国の王様のような存在になりました。マラドーナの様な選手は「自身が求められる場所で」「求められる人たちのために」プレーすることこそが「幸せ(Feliz)」に直結し、プレーすることの最大限の喜びを感じられたはずです。
「最愛の地ボンボネーラ」
彼はブエノスアイレスの貧民街出身です。ブエノスアイレスにはボカジュニアーズとリーベルプレートのアルゼンチンの2大クラブがあります。上流階級のクラブはリーベル、労働者のクラブはボカジュニアーズで赤と青と完璧に人気は二分されています。マラドーナはその労働者のクラブボカジュニアーズに若手の頃と選手の晩年に所属していました。ボカジュニアーズのホームスタジアムは「ボンボネーラ」であり、毎週超満員のスタジアムです。マラドーナは心のクラブでプレーしました。
「若年期」
若い時期にクラブに関わる人の全てを背負うには早すぎ、疲労もピークでマラドーナを獲得した際の移籍金がクラブの経営を圧迫しており、彼は、クラブを想いバルセロナに移籍し、大金の移籍金を残して旅立ちます。
「晩年期」
晩年期はもう選手として満足にプレーできる健康状態ではありませんでした。しかし、彼は変わらずボカは心のクラブであり続けます。薬物問題後も愛するボカとの関係は継続され、最後にはスーペル・クラシコ(ボカvsリーベル)の試合で‘97年10月31日に37歳で現役引退を表明しました。
どちらの退団もクラブ、街、マラドーナ自身にとっても非常に辛い別れになりました。現在も至るところで街の壁画に「ディエゴ・マラドーナ」の肖像画が描かれており、未だに人々のアイドルであり続けています。
「マラドーナに愛をこめて。」
彼は、トラブルメーカーで、チーム作りでは彼自身がNo.1でなければ満足せず、アンタッチャブルな存在であったことは間違いありません。しかしながら、自分のやり方を貫き通し、選手としての全盛期は、アウトサイダーであるナポリに全てを捧げ、「ナポリの王」となりました。また、祖国に帰還してからは「ボカ愛一筋」を貫き、生涯青黄のユニフォームでした。そんな恵まれない生まれでも、世界No.1になることが出来ると証明した彼の物語は、痛快なサクセスストーリーで、今後のサッカー史に残すべきであり、永久不滅の語り継がれるべき物語です。彼の伝説は、永遠に人々の心の中で生き続けるでしょう。
親愛なる「ディエゴ・マラドーナ」
Rest In Peace.
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