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踊るって自分をすり減らすことだった

踊るって自分をすり減らすことだった。

あの頃は何かを犠牲にしている、という意識はなかったけれど、
今振り返ってみると、たくさんのものを失い、犠牲にし、取りこぼしていたように思う。

物心ついた時には舞台に立っていた。
舞台から見えるあの景色が当たり前にそこにあった。
思えば、客席にいる時ですら、舞台からみる景色を観ていた。
わたしは観る側に耐え得ないのかもしれない。

幼い頃から、『嫌だ』と言えないタチだった。
そんな抱え込んだ感情を踊りで消化していた。

踊りの世界がわたしが『わたし』でいられる、『わたし』自身を解放できる唯一の場所だったのだ。

クラシックバレエは大きくいうと型にはめるタイプの踊り。
だが、大きくなるにつれ、バレエを学んでいく中で当然のように自分自身を解放することができなくなった。
決められた型にはめていくたびに自分を否定されているような感覚だった。

それでも型にはめられた踊りを出来る人は無駄がなくて美しいのだ。
でもその事実がわたしには物足りなく感じていた。

17になって、新しい踊りに出会った。
コンテンポラリーダンス。

コンテンポラリーは自由、なのだ。まさに解放。

わたしの求めていた世界だった。

型にはめて踊ることに苦しさを感じながら
一歩踏み出すことができなかったのは、未知の世界への恐怖ゆえ。
勇気を出して踏み出してみさえすれば、そこは楽園だった。

だが、どちらも両立できるほどわたしは器用ではない。

クラシックバレエの先生からは踊りを否定されるようになった。

それはとても悲しく虚しいことだった。

コンテンポラリーを知ったわたしの踊りは、『わたし』自身を解放したものだったから。

踊りを否定されるたび、わたし自身を否定されるような心地だった。

踊りでも絵でも写真でも。

芸術ってなんでも、その表現者の生き様とか性格とか感性とかその人そのものが現れてしまう気がする。

いい意味でも悪い意味でも、作品がその人の一部なんだ。

本来、自由であるべき芸術が否定される状況はとても虚しく、かなしいことに思えた。

自分をすり減らすことなんかじゃなくて、
皆がそれぞれ自分の価値観とエネルギーで、自由に自分を解放できるものこそ、芸術と呼びたい。

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