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満員電車の所有欲

 満員電車に乗り始めて今年で7年目になる。毎朝毎夕こんな現代の奴隷船みたいな乗り物に詰め込まれていることが、7年のキャリアを積み重ねた今でも阿呆らしい。実に罪深い、早くなんとかしてほしい。
 満員電車に乗り始めた当初は「何が大量輸送だ、いいから早く目的地に着いてくれ」と崇拝もしていない神様に毎朝必死に嘆願していたものだ。
 しかし5年も6年もこれに乗っていると、悲しいことにこの過酷な環境に慣れてしまい、あろうことか今度は満員電車にさえ乗り心地を求めるようになってくる。高速で移動する鉄塊、揺れる車内、隣のアンタ顔も知らねぇ。ゼロ距離で見知らぬ人間とくっついているというこの異常な環境が、私たちの感覚を麻痺させるのかもしれない。
 間隔の感覚が狂って、この地獄のような満員電車にさえ心地よさを求めるようになる。蒸し暑い夜に布団の冷たい場所を探すように、雪山で服を脱ぐ矛盾脱衣のように、私たちはこの地獄の中に凪を探す。

 この"心地よさ"の正体を私は「満員電車の所有欲」と名付けたい。以下その論拠。

・私の満員電車遍歴

 私の満員電車遍歴の始まりは大学1回生のときだ。実家のある兵庫県からお隣の大阪府へと県外通学をすることになったため、この時点で関西随一のラッシュ路線の利用が運命づけられた。乗車合計時間1時間20分、2社4路線を乗り継ぐ生活を4年間続けた。
 大学を卒業して、2社目への通勤も実家からだった。相も変わらず兵庫県から大阪府の職場へと出稼ぎ労働をしていたため、大学時代と変わらない路線を利用することに。学生時代は昼からの授業などもあったから毎朝のように通勤電車に乗る必要はなかったが、社会人とならばそうはいかない。週5で最も混雑する時間帯の電車に乗らなければならない。
 大阪駅に到着してからそこからさらに電車を乗り継ぐ。朝の大阪駅の盛況ぶりをあなたは知っているだろうか。あれはもはや"暴動"に近い。あそこでは毎朝なんらかの我が闘争が繰り広げられている。

 そして現在、私が利用しているのは大阪随一の過密路線でもある大阪メトロ御堂筋線。ここ数年はコロナウイルスの影響もあり、朝の通勤電車の利用者数がかなり減っていたが、世界情勢が正常になっていくにつれて、日本の満員電車は持ち前の異常さを取り戻していったといえる。

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 「満員電車に乗り心地のよさを求めるようになった」と言ったが、そもそもの話、満員電車に乗り心地もクソもあったもんじゃない。朝だろうと夕方だろうと、夏だろうと冬だろうと、晴れだろうと雨だろうと、満員電車に四季などないし、心地よい気候もない。時期によって少しばかり人が多かったり少なかったりするだけで、基本的には三千世界無間地獄だ。
 「座るは官軍、立つのは賊軍」という単純明快な掟がある。満員電車では座っている者こそが勝者だ。たとえあと1駅で降りるとしても、腰を落ち着けたいという欲望には逆らえない。毎日この日本のどこかで壮絶な椅子取りゲームと心理戦が繰り広げられている。

 乗り心地とはいうものの、勘違いしてはいけない。ここでいう乗り心地は「快適さ」を意味する「Comfortable」ではない。振動の少ない車体とか、騒音のない気密性、広い窓から見えるパノラマビュー、行き届いた車内サービス、そんなものは観光列車にでも任せときゃいい。そもそも満員電車には乗り心地などという言葉は水と油の関係性であり、ハナから溶け合うわけがない。
 ここでの乗り心地というのは、「優越性」を意味する「Superiority」を指している。満員電車という狭い空間に一様に押し込められた身、劣悪な条件としては乗客みな平等である。私たちはその中で、水面に向かって空気を乞う魚のように、少しでも"上"を目指そうとするのだ。

 満員電車に乗ったことがある人ならわかると思うが、あそこは紛れもなく戦場である。わずかな自由空間を奪い合い、自分が最も適切に身体を当てはめられるスペースを見つけ出す。そして停車するたびに乗降客の潮流に乗って場所を移動し、一瞬空いた座席を逃さず滑り込む。技術と運をも必要とする、これはまさに細菌撲滅のようによくできたパズルゲーム。年端もない少女も、ツーブロックをがっちりワックスで固めたサラリーマンも、物腰の柔らかそうな老婆も、ここでは皆一様に"敵"になり、優しそうなその笑顔の裏に不意に邪悪なアルカイックスマイルの片鱗を覗かせたりする。これぞ全員、悪人。満員電車百景。

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 電車の進行方向に平行になるように配置されたロングシート。当然朝のこの時間はすべて埋まっている。ロングシートに座る乗客の前には、吊り革に掴まって立つ人がズラリ。次の停車駅まではまだ時間がある。ロングシートに座っている客はみなどこかよそよそしい表情で、本を読んだり前に抱えたカバンに顔をうずめたりしている。その前に立つ人らはみなどこか落ち着かない様子だ。次に駅で停車するタイミングはすなわち、座るチャンスに他ならないからだ。


 ある朝の満員電車、私は座っていた。別にこれ自体は珍しいことではない。たまたま空いた席に私が滑り込んだ。ただそれだけの話。ここは地獄の中のシェルターだ。
 やがて降りる駅に到着する。乗り込んだ最寄駅からおよそ40分間の長旅。座ったのは途中駅からだが、朝起きて駅まで自転車を漕ぎ、満員電車に詰め込まれ40分間も乗り続ける毎朝のルーティン。通常通り電車が運行されればいいものの、遅延などが発生すればその日は超エキサイティングな日になる。

 電車が停車し、ベロア生地のロングシートから体を浮かす。進行方向左側、ホーム側のドアに向かって車内の乗客が一斉に体を向ける。まるで巨大な動物がその巨体をもたげたかのように空気が動く。「お降りの方からお通しください」、アナウンスとほぼ同時にドアが開き、俯き加減の人々は急ぐようでもなく、百鬼夜行の列に加わる亡霊のようにゆっくりと降車していく。いよいよ地獄の釜が開いたようだ。
 私もやおら立ち上がる。乗客はみなドアをくぐっていき、外の百鬼夜行に続々と加わっている。私も早く行かねばと焦る。 
 この満員電車の中で私が座っていたこの空間は、たった15分間ではあるが間違いなく私の場所であった。日々違う誰かがここに座り、しばしここの一員となっている。その瞬間だけは、その場所はその人だけのものとなるのだろう。
 ドアの外には、今か今かとこの地獄に乗り込もうとしている乗客たちがうつろな顔で待っているのが見えた。ふと、さっきまで私が座っていた座席のほうを振り返ると、そこにはもう知らない女性が座っていた。灰色の波に押し流されるままに、私は電車をあとにした。


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