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長崎は今日も晴れだった

   「#一度は行きたいあの場所」というハッシュタグだけれど、正確には「一度は”行ってみたかった”あの場所」かな?何故なら、長年行きたかったその場所に私はついに行ってきたのだから。ということで、その日のことをつらつらと連ねてみよう。
(※かなりの文量ですのでご容赦願います)

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私が今住んでいる街は、海と山に挟まれた、自然豊かで叙情感溢れる素敵な街。歴史ある風景が今でも随所に散見され、オシャレな喫茶店やカフェ、雑貨屋や古着屋が点在している。生まれて20数年、私はずっとこの街で過ごしてきた。そして、この街に長い間住んでいるうちに、同じような風景を持つ街を愛するようにもなっていた。

思い立ったのは本当に出発当日の2日ほど前だった。昨今世間を騒がせている新型コロナウイルスが海外で猛威を振るい始めた頃、私が計画していた海外への卒業旅行がその影響を受けてパーになってしまった。

不測の事態ではあったが、海外情勢や自らの身体、そして将来を考えたうえで、今海外旅行を決行するのは愚策ということを踏まえての結論だった。残念な結果ではあるが、幸い旅行代金の半分以上は返ってきたので、このお金を別のことに費やそうと思い立ったのが、この長崎県への一人旅だった。思い立ったが吉日、今すぐ参ります。

 長崎空港はなんとも辺鄙な場所に建っている。長崎空港に限らず、地方都市の空港ってのはどうも不便な場所にあるね。一人で異国の地へ赴くのにももう慣れてしまったのだが、空港だけはなぜか緊張してしまう。

長崎空港からバスに乗り、市街へ向かう。BGMはカネコアヤノ、早起きだったので窓から指す陽が少し目に痛い。写真は当日に履いていた靴。前日にとある古着屋で格安で購入した。「新しい靴を履いた日は それだけで世界が違って見えた」。いやほんとにその通り。靴って、体に身につける衣類装飾品の中で唯一、地面に直接触れるものだから、靴って大事だと思う。

 長崎市に着いた。何より私がまず圧倒されたのは、交通網がスゴい!ひっきりなしに路線バスが往来し、首都圏等ではあまり見ない路面電車がそのバスとじゃれ合うように走り、それらの周りを取り囲む乗用車!長崎県は日本一坂が多い土地だからかなりの車社会だとは聞いていたが、いやはや想像以上のモータリゼーションだ。GTA5を思い出した。

 写真はオランダ坂という場所。出島近くの大波止というバス停でバスを降りた私は、とりあえず次の予定までの時間で街を徘徊した。ふと見上げた看板に見覚えのある文字「オランダ坂」。船の出港までまだ時間もある、ちょっと行ってみよう、坂と異国情緒は大好物なんだ。

 神戸、横浜と並んでここ長崎も異国情緒感あふれる街だ。随所に残る西洋文化や歴史の名残、大理石のストリート、もはや築何年かわからない建造物。文明が発達しきったこの時代にある意味そぐわないとも言えるそれらのアンバランスさが好きだ。

 ひとり旅のいいところって、何より自分の世界に浸ることができる、に尽きるんだよね。自分の見たいモノを自分のペースで、誰にも邪魔されない、せっかちでマイペースな私は、ちっとも寂しいと感じないぜ。

 私の住む街の光景と、少し被るシーンが何度かあった。綺麗に舗装された傾斜の大きい坂を上りきった先、息を切らしながら見下ろす街は、どこか懐かしさや安心感まで感じてしまう。
両脇に広がる海と山の間を、住宅街やビルが遥か遠くへまで連なっていってるんだけど、ある点でそれが途絶えて海と山が出会う地点がある。消失点っていうのかな、それがたまらなく好きなんだよな。将来は海がよく見える坂の上の土地に住みたい。あ、でも老後のことを考えるとしんどいので、しっかりとバス路線が張り巡らされている高台の土地、がいいな。

 さてさて、そろそろ、わざわざ、何故私が遥か長崎県まで一人で来た最大の目的を発表せねばならない。それは、何を隠そう、長崎県が誇る最大の観光スポット、「軍艦島」。

 軍艦島を知らない読者はおよそいないと思う。正式名称は「端島(はしま)」であり、長崎市の長崎港から海上約17キロ地点に浮かぶ無人島だ。今では無人島ではあるが、かつては炭鉱採掘によって大いに栄えた島としても有名だ。1974年には海底にあった鉱山が閉山し、同年にこの島に住んでいた島民もすべて退去し、あっという間に無人島になった。

日本の高度経済成長期、エネルギー転換の波に乗って繁栄したこの島には、最多時で5000人を超える人口を誇り、その人口密度は東京都をも超えたというから驚きだ。小さな島には当時としては珍しい鉄筋のアパートや、高層の学校、商業施設、映画館、神社までもが建設されていた。ちなみに大正5年に建築された鉄筋コンクリートの集合住宅は日本最古のものである。

それらが長い年月を経て雨風に晒され、朽ち果てた島の全貌がまるで軍艦のように見えることから、「軍艦島」という二つ名で呼ばれることになった。

 現在、軍艦島への上陸は禁止されているが、長崎市内の複数の民間クルーズ会社が軍艦島への上陸クルーズツアーを毎日企画しており、それらに参加すれば軍艦島に上陸することができる。幸いにも私が長崎を訪れた日は雲一つない晴天で、これ以上ないといっていい上陸日和になった。

船に乗る機会ってあんまりないから緊張してしまうね。船着き場に係留していた船に乗り込む。雲一つない穏やかな気候ではあったが、海風は少し強く吹いている気がした。ツアー客はそれほどいないように感じたのは、やはりこのご時勢だからだろうか。船には半地下になっている客席と外がよく見える客席があったので、私は海がよく見える客席にゆったりと座った。

出航時間までもらったパンフレットを読みながら時間を過ごす。さあいざ、出航だ。ボンボヤージュ!

 航海時間は片道約40分。その道中(海中?)、湾岸に広がる産業の礎のガイドが船内にアナウンスされる。鮮やかなクレーンや大きなドックが軒を連ねている、小高い山には民家がびっしりキノコみたいに生えている。山頂には建設途中と思われる巨大なマンション。明治維新の頃、海の向こうの大国から遥々とこの小国の港湾を目指して多くの船がやってきたのだと思うとどこかロマンチックだ。 

 船はかなりのスピードで航行している。水しぶきが船内に入らないよう、係員の方が幌を閉めてくれた。その間もガイドは続く。有名な神ノ島のマリア像は存外に小さい。三菱の造船ドッグは想像を超えるスケール。どこまでも広がる海洋。写真を撮るのも忘れてしまう。

 少し航海に飽きてきたころ、ついに軍艦島が見えてきたとのアナウンスが入った。ここで乗客たちは、船の上部にある展望デッキへの入場を許された。係員の案内に従い、荷物を持ってそろりと階段をのぼる。海風がかなり強い、被っていたニット帽が飛んで行ってしまいそうだったのでカバンにしまった。船内からぞろぞろと乗客が出てきて展望デッキはあっという間にごった返した。

 船の進行方向右手には、もうあの軍艦島が見えていた。ここからはまだかなりの距離があると思われる、片手で覆い隠せるほどの大きさにしか見えていない。それでも全体像はしっかり見渡せる。小さい頃からずっと、画面の向こう側でしか見たことがなかった、あの軍艦島だ、間違いない。すぐそばに喜びを共有できる誰かがいないのは少し寂しいが、テンションは上りに上がっていた。

デッキに上がった乗客は皆続々とスマホを取り出し写真を撮っている。私はなんとなく誇らしい気持ちでそれを遠慮し、次第に大きくなってくるそのシルエットをただ見ていた。やがて船は減速を始めた。

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いよいよ手で覆い隠せない大きさの距離にまで来た時、船は軍艦島と平行になってそのまま洋上で停船した。しばしの観光タイムといったところだ。船着き場が見えるのでこれが恐らく軍艦島の正面であろう。ここから船はぐるりと島を周遊し、360°あらゆる角度で島を見学する。

学校らしき建物の跡があることに一目で気づいた。かつてはここで何人もの子供たちが勉強したのだろう。360°をこんな近距離で海が囲む学校なんて、本当に日本でもここくらいのものではないのか。学校と背を競い合うかのように聳立するアパート群から学校に向かって、いわゆる渡り廊下みたいなものが通路が架けられている。もうすっかり朽ち果ててしまっているが、目を凝らして全貌を見渡してみると、当時の子供たちが息巻いて走り回ったであろう残像が見えてくる気がした。

船は島を反時計回りに航行し、島の背面に回り込んだ。背面には岸壁のギリギリにまでアパートやマンションが迫っている。その岸壁の下部、水面にかなり近いところには排水口がいくつか設けられており、高い治水能力があったことを伺わせる。

経年劣化と塩による浸食で建物はもうボロボロになっている。それでもやはり、在りし日の当時の姿に思いを馳せずにはいられない。ここには間違いなく、5000人をも超える人間がひしめくように居住し、働き、学び、そして生きていたという事実がある。当時の姿なんて私は知るわけが無い、知る由もないのだ。それでも、この廃墟というものは、ロマンという概念に姿を変えて私に訴えかけてくる。もはや知ることができないものほど、知りたくなるのは人間の真理なのかね...。

↑ 写真は上から、6時の方向(正面)、3時の方向、0時の方向、そして引きのアングル。なるほど、軍艦島と呼ばれる所以がよくわかる。

   さて、いよいよ上陸作戦のときである。その前に、軍艦島で撮影を行ったことでも有名な、B`zの名曲「MY LONLEY TOWN」を聴いていただこう。

 クルーズ船は島を反時計回りに一周したのち、再び正面へと戻ってきた。言い忘れていたが、最初に島の正面に到着した際、別のクルーズ船がすでに船着き場にいた。そして再度戻ってきたときには出航したあとだった。一日に何隻もの船が来ているみたいだ。船着き場に私たちの船が近づいて行こうとしているとき、さらにもう一隻の船が近づいて来ているのも見えた。

 岸壁までもう手が届くという距離になった。船内の係員たちが慌ただしく動く。まるで大蛇のような係留ロープを引っ張り出し、船と船着き場のフックと接続する。やがて船はぴたりと島に横付けされ、揺れも収まった。係員のアナウンスで私たちは島へと降り立ったのだった。

 島内の散策ルートは一本道になっている。観光用に整備されているとは言え、瓦礫の廃墟が犇めく無人島である。いつ何が倒壊してもおかしくない環境なのだ。確実に安全である手すり付きのルートが設定されており、観光客は先頭を行くガイドに従いなぞって歩く。

 まるで映画のセットみたいだ。そういえばこの軍艦島、実写版「進撃の巨人」のロケ地にもなったらしい。なるほど、立体機動の何某が飛び出してきても違和感ないな。戦争でも起きたのかってくらい荒廃してるけど、やっぱり四方を海に囲まれてるから海風の浸食が凄いんだろうね・・・。

 1枚目の写真の中央上に見える高台。あそこには幹部用社宅、貯水タンクや電波塔があったらしい。ちなみに、ソーラーで稼働する監視カメラも設置されているらしく、不法に上陸した場合はすぐに見つかるそうだ。写真中部にある橋脚は、かつてこの上にベルトコンベアがあってその上を石炭が流れていたそう。想像以上にいろんな設備が整っていたことがわかる。

 三枚目の写真中央に映る赤煉瓦の建物。これは鉱山の経営や事務を担っていた総合事務所であり、かなり古い建物だと言っていたような言っていなかったような。島全体がモノトーンなのに対して、ここだけ鮮やかな色があることになんだか感動した。白黒写真をカラー補正するときのあの感じに似ている。赤煉瓦の右横にある階段のついた建物、これが海底炭鉱へ下りてゆくエレベーターである。炭鉱夫たちはここから地下何百メートルまで潜り、そして仕事を終えて帰ってくる。汗と泥と炭鉱にまみれた彼らの衣服は真っ黒で、その階段には今でも靴裏の黒炭が染みついているそうだ。ちなみに返ってきた炭鉱夫たちが階段を下りた先には風呂があり、そのまま直行できるようになっているそうだ。

 さらに奥へと、島のちょうど裏側近くまで歩く。

 通路の途中、防波堤が崩れて少し外海が見えるところがあった。山間を走る鉄道から窓の外を見ていた時にちらっと海が見える、そんなシチュエーションに似ている。そうだ、ここは島だったんだ。

軍艦島の中で恐らく一番有名な建物でもある鉄筋コンクリート造りのアパート。骨組みこそは残っているものの、内部の床はすべて抜け落ちてしまっているそう。なので立ち入りは禁止。
海が荒れ模様の日、軍艦島には防波堤を悠々と超える波が直撃したそうだ。四方を海に囲まれた軍艦島の住民は、波の来ない所へ避難することができないので、台風の日は一大イベントになっていたそう。上の3枚目の写真に写っている左側のアパートのような、一番海に近いところに建てられているアパートなどは、防波堤と同じような役割を果たしていたらしい。防波堤アパートが波を被ることで、後ろのアパートが守られる、ということだ。もちろん、海側に面するのは玄関や廊下の部分なので、部屋に直接海水が入ってくることは無い。特殊な地理だからこその知恵だなぁと思った。

いろいろと異例の居住地だけど、島民みんな楽しく暮らしていたんだろうなぁと想像出来る。しかも、まだ今みたいに便利な世の中じゃなかった時代、そして今では完全に失われてしまったという事実が、私の知的探究心と好奇心を煽る。
廃墟の魅力、私は何度聞かれてもこう答える。
「在りし日の姿を想像するのが楽しいから」と。

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都会は何もかもが揃っていて便利だ、それは間違いない。でも都会には絶対にないものが、私は欲しいんだ。あぁ、やっぱり私は、シティーボーイにはなれないな。

#一度は行きたいあの場所

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