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盆・ボヤージュ

 悲しいことは、悲しいことがあれから一度もないことさ。最後に悲しみに暮れたのはいつの日か。お盆の時期になると、なんとなく肌身で感じるやるせなさ。このやるせなさの輪郭が年々、形取られていくようになってきた。

 「夏休みのターニングポイント」くらいにしか、お盆というものを認識していなかった。気づいたらなんとなく夏だったのだが、気づいたらなんとなく秋の口が見えている。夏、この度めでたく24度目の解散。

 お盆の存在意義は夏というレースコースのチェッカーフラッグくらいのものだった。しかし本来は、黄泉から帰ってきたご先祖様の霊たち(ゴースト)と盆踊り(ダンス)っちまう大切なイベント期間なのである。

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 地元に帰った。お盆だから、という理由付けが必要なほど離れた土地に住んでいるわけではないが、お盆だからという口実に縋ればやはり気持ち的にも帰りやすい。電車に1時間も乗れば帰れてしまう、平凡・ボヤージュである。

 父方の祖父母も、母方の祖父母も、実家が私の実家の近く、つまり実家の三つ巴状態なので、お盆に遠く離れた故郷に足を運ぶといったイベントもない。まさに実家の実感がないというワケだが、最近の若い人たちの実家は新造されたニュータウンだったり都心のタワーマンションだったりするから、実家に帰るという行為=田舎に帰る、という構図ではなくなってくるのだろう。

 というのもあって、お盆だからと特にどこに行くでもなく、近所に車を走らせてご飯を食べに行ったり、ドライブしたりした。

 祖父のお墓参りにも行った。祖父が亡くなって2年近く経つが、なんとなくまだ実感が湧かない。あまり会えていなかったというのもあって、祖父の家に行くといまだに書斎からフラッと出てきそうな気がしてならない。近所の公園で暑い中、虫を捕りに行ったりザリガニを釣りに行ったりしたことを思い出す。不思議なもので、幼き日の思い出はいつだって夏の日なのだ。

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 夏のせい、というと夏に責任を負わせすぎなところもあるが、夏はやはり思い出話をしたくなるのは皆の共通感覚なのだろうか。御先祖様たちのショートトリップ、夏の思い出、盆ボヤージュ。

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