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9月23日『鉄塔は秋の季語』

 成城石井を徘徊しながら「高いなぁ〜」「美味そう〜」と言って帰るだけ。
 Francfrancに入店していい香りのテスターを付けるだけ付けて帰るだけ。
 駅のコンコースに陳列された旅行パンフレットを眺めるだけ眺めて旅行に行ったつもりになるだけ。
 って感じです最近は。

 もうすっかり涼しくなった。山の上には肌寒(はだざみ)い風が吹き付けていて、朝と昼の寒暖差にも感嘆する日々だ。
 そういえばこの前、某牛丼チェーン店に行った時、席に座った瞬間にノートパソコンを広げていた男性がいた。ご丁寧に周辺機器まで付けていたのだが、果たしてこの人は、スキマ時間を使うのが上手いのかそれとも単に下手なのか...。恐らくあの後にすぐ牛丼がスピード提供されたのであろうが、私は結局その顛末を見届けることは無かった。どうでもいいけれど。

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 神戸の町を一望できる六甲山という山に、とあるイベントのついでに行ってきたわけ。蒸し暑かった夕暮れはどこへやら、日が暮れ始める頃になると、半袖の身には少し耐え難いくらいの風が吹いていて、人々の下山を急がせるようだ。それでも秋の気配が見え隠れする山頂は、細いススキがたなびいていて綺麗だった。秋の夜長を泣き通したい気分だ。

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 そう、たとえば山野に毅然と聳える送電塔に、私たちは何を思うか。自然の中に溶け込むことができない人工物は、ある種ノスタルジックでダイナミックで。山の遥か向こうまで電力を供給していてまだまだ現役バリバリであっても、人知れず深い山奥に鎮座しているのではあれば、それは忘れ去られたも同然であると言える。山間からこちらを覗く鉄塔がハイウェイから見える。左右を電線に繋がれたその姿は、動きの無くなったマリオネットのようだ。

 「鉄塔」を季語に加えるのならばどの季節が妥当だろうか。特定の季節によく見かける訳でもない無機物を季語にするというのはなかなかに難儀な話で、趣きを感じられる季節も人によって異なる。夏の平原に立つ鉄塔も素晴らしいし、冬の物悲しい鉄塔も良い。清少納言がこの時代を生きていたら、「夏は鉄塔」とか言っていたに違いない。

 そんな私は、この"鉄塔"を秋の季語にしたい。晴れ渡る夏空の下に映える鉄塔、そして来たるは冬。木枯らし吹き抜ける厳寒の山野にそびえたつ鉄塔。そのちょうど間の秋に見える鉄塔はこれまた素晴らしい。
 夏を終えた虚無感と、もう片鱗を見せつつある冬への期待。なんだか人間と似ているような気がしないこともない。

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