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日本農業の歴史②
4.飛鳥時代(592年~710年)
米は栄養価が高く生産性に優れ、長期保存できるため、米が通貨として利用され、「税」として納めるという社会が始まりました。
米を「税」として納めた法律を「班田収授法」と言います。
この時代は、全ての人・土地が国家(大和朝廷)のものとされており、6歳以上の農民に土地である田んぼ=口分田(くぶんでん)を分け与えていました。
そのかわりに、収穫した米で税=租(そ)を徴収していたのです。
口分田は売買を禁じられ、その人が亡くなると口分田は、国に返還されました。
5.奈良時代(710年~794年)
奈良の都を中心に繁栄していましたが、租庸調や労役の負担に苦しむ農民のなかには、口分田や家を捨てるものが増えてきました。
また人口も増加したので、口分田が不足しました。
722年(養老6年)、朝廷は田んぼの面積をかなり増やそうと百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)を立て、723年(養老7年)には、新しく開墾したものには3代の間(本人、子、孫)、私有を認めていた三世一身法(さんぜいっしんほう)を出して開墾をすすめました。
しかし、3代経ったら口分田を国に返還しないといけないので、あまり効果が出ませんでした。
解決策として、743年(天平15年)の墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)によって、開墾した個人が土地を永久に所有できることになりました。
この法律によって、土地は国に返還する必要がなくなったので、土地の整備資金を持っている有力な貴族や寺社が土地を拡大し、私有地である大農園=荘園(しょうえん)が広まっていきます。
6.平安時代(794年~1185年)
平安時代後期に荘園は増え続け、国家の土地である口分田が減り、政府はしだいに無力化していきました。
荘園の境界をめぐる土地争いなどから身を守るために、農民は武装をするようになります。
ふだんは農業をしながらも、武士となり、武士団をつくって軍事力を養っていたのです。
その武士団の代表例が平氏や源氏となります。
7.鎌倉時代(1185年~1333年)
鎌倉時代は、農業が大きく発展した時代でした。
この時代になって、日本ではじめて二毛作(にもうさく)が行われるようになりました。
二毛作をすることによって、同じ田んぼで、夏(6月頃〜10月頃)に米、冬(11月頃〜5月頃)に麦を作ることができました。
牛馬の糞を肥料にして土地の生産力が上がったことで二毛作が始まり、それまでの時代と比べると農作物の生産性が大きく向上しました。
《言葉の意味》
租・・・田んぼで収穫したお米を税として納めること。
庸・・・都で働くことで税を納めるか、代わりに布などを納めること。
調・・・布や特産物(絹、糸など)を税として納めること。
労役・・・肉体労働をすること。
麦・・・小麦(パン、麺の材料)大麦(ビール、味噌、醤油の原料)、エン麦(グラノーラ、オートミールなどに加工される麦)などの総称。
肥料・・・植物を育てるために与える栄養分。また、肥料の三要素とは、「窒素(葉肥(はごえ))、リン酸(花肥(はなごえ)または実肥(みごえ))、カリウム(根肥(ねごえ))」である。
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