僕は君のために、いつまでも子どものまま〜東京ネバーランド全曲解説〜
私事ですが、僕は「Goppipolla」というアーティスト名で、細々と曲作りをしています。
2023年7月に、念願のアルバム「東京ネバーランド」をリリースしました。
各種サブスクで視聴できます。
このアルバムを出してしばらくは満足していたのですが、最近ふと、「このアルバムに込めたメッセージ、ちゃんと伝わっているか…?」と不安になってきたので、この記事でアーティストの禁忌である全曲解説を試みる所存です。
全曲解説という禁忌を犯す意味
かの有名な文豪、太宰治は、『自作を語る』にて、以下のように述べています。
この弁を借りるなら、自身のアルバムを解説しようなどという行為はすでに敗北であり、僕は本当に情けないやつです。
が、しかし。
僕は以下の2つの理由から、意地でもアルバム解説をすることを心に決めたのです。
肉を切らせて作る骨スープ
何かしらの思いがあり作品を作ったなら、一旦敗北を取ってでも、その骨の髄まで人に伝えるのが、敗北者たるクリエイターの使命です。
さらに言えば、承認欲求の塊たる僕は、兎にも角にもそれを伝えないとやっていけないわけです。
仕事の合間を縫って死に物狂いで言葉の一つ一つにまでこだわりきりアルバムを生み出したのだから、その魅力をあらゆる手段を駆使して伝えなくては、何か自分に非常に失礼な気がするのです。
例えるなら、孤高のラーメン屋がついに編み出した秘伝のスープを誰にも食べてもらえない時に「いやいや、俺が美味いとわかってりゃいいから」と、1人すすっているようなやるせなさを僕はずっと感じていたわけです。
「とりあえずスープ飲め!」とメニュー表に宣伝文句を書き連ねるくらいの権利はあると思っております。
音楽には物語が必要
敢えて言いますが、インターネット社会の浸透により、どんな娯楽にでも簡単に飛び込める時代において、音楽を聴くハードルは下がったと見せかけ、非常に上がったと言えます。
そんな時代において、人は音楽を聴く時に、何かしらのきっかけや、物語を必要としていると思うのです。
さらに言えば、多くの人は音楽を聴くのではなく、その裏にある物語を消費しているのだと思っています。
例えばあるバンドの「絶対にドームでライブをする!」というわかりやすい目標に、ファンが一斉に乗っかることもそう。
オーディション番組を勝ち抜いたラッパーが、ヒップホップフェスで名を轟かすのもそう。
もっとハードルを下げた例で言うと、TikTokで泣ける動画と一緒に流れる音楽にハマるのも、おもしろフラッシュで見つけたMAD動画にハマるのも(古すぎる例)、アニメのタイアップがウケまくるのも、根本にある理由は「物語」と言うキーワードである程度説明できる気がしています。
そんな中、名前も知らない僕の曲が突如SNSのタイムラインに流れ、「新アルバム作りました。聴いてください」とメッセージが添えられていたとしても、誰も見向きもしないわけです。
そしたらどうすればいいのかと言うと、もう僕の物語を一から説明するしかないのです!!
以上の理由から、僕は太宰治のいう「作者の敗北」を甘んじて受け入れ、アルバムの解説を始めたいと思います。
ただ、前述の通り、そもそも知らねえやつの知らねえアルバムを聴いても仕方がないと思うので、アルバムを説明する前に、僕と言う人間が誰なのかを説明させてください。
Goppipollaの生い立ち
僕は1995年に千葉県で生まれ、小中高を幕張で過ごしました。
金銭的にも不自由はなく、ありがたいことに東京大学に入学、2020年に卒業し、現在は東京に住みながら社会人をやっています。
そんな自分の不幸をあえて上げるのであれば
・幼少期に母親を亡くしていること
くらいかと思っています。
5歳の時に体験した人の死は、わりかし自分の死生観に大きな影響を与えている気がします。
そんな自分は小学校の時にモテたいがためにギターを始め、中学校ではカッコつけたいがためにバンドを組み、高校では目立ちたいがためにオリジナル曲を作り、千葉のライブハウスで細々とライブ活動をするようになりました。
今でも名前を変えギターを変え、バンドは細々と存続しており、今年で12年目になります。
それでも、社会人となり、ライフステージが変わってそれぞれの生活や価値観が少しずつ変わってくる中で、以前のペースで活動することはほぼなくなっています。
かくいう自分も、仕事も忙しくなり、音楽を作ることや当時の熱量も忘れかける日々です。
何より、大学時代まであった「全能感」は、日を追うごとに衰えていくのを感じています。
そうした中で、自分の中に溜まった、まだ言えてないことを言い残しておきたい、と言うのがこのアルバムを使った動機です。
東京ネバーランドとは
僕はピーターパンや!
先に結論を言ってしまうと、このアルバムはそんなふうに人生のコマを進めていく友人や家族や恋人が、本当に辛くなってどうしようもなくなった時、いつでも帰ってこられるアジール(避難所)として自分がいること、そしてそれ自体にしか自分の生きる意味を見出せないという結論に行き着いたアルバムです。
タイトルの東京ネバーランドは、アメリカの心理学者ダン・カイリーが提唱した「ピーターパン症候群」という、非常に有名な概念から着想を得ています。
このアルバムの主人公は一生子どもであるという呪いを受けたピーターパンとして自分が存在することを受け入れ、だからこそ救える人の存在にたどり着く、という構成で作られています。
コンセプトアルバムという衝撃
このように、「東京ネバーランド」というアルバムはコンセプトアルバムです。コンセプトアルバムとは、The Whoの「Tommy」やQueenの「A Night at the Opera」に代表されるような、アルバム全体を通して一つのコンセプト、さらに言えば物語によってまとめられたアルバムです。
自分が好きなアルバムでもMy Chemical Romanceの「The Black Parade」、さらに言えば音楽に傾倒するきっかけになったBUMP OF CHICKENの「Orbital Period」などはその部類に入ると思います。
サブスクの台頭により、アルバムという概念自体が崩壊している昨今ですが、自分は思春期にこれらから栄養を得てきた以上、どうしてもアルバムを通して一つの物語を紡ぎたいという思いが昔から非常に強いです。
そのため、「東京ネバーランド」というアルバムも、コンセプトアルバムとしてどう作るかを念頭におきながら制作を進めました。
このアルバムにある(表面上の)物語の流れは「千葉という街で生まれ育った少年が、大人になると共に東京に旅立ち、世界を夢見ながらも最後は神奈川の田舎町にたどり着く」というもので、前述の自分の生い立ちを反映しまくった設定になっています。
曲を経るごとに舞台が千葉から東京、神奈川へと、まるで総武線快速に乗っているかのように移り変わるので、そんなところにも注目してみてください。
お待たせいたしました。それでは本題の楽曲解説を始めます。
東京ネバーランド全曲解説
TOKYO NEVERLAND
アルバムタイトルの英訳となっている一曲目のこの作品は、実はかなり後期にできた楽曲です。
この曲は物語に入る前のプロローグ、例えるなら映画のタイトルロゴみたいな立ち位置の曲で、先ほど述べたようなアルバムを通した決意表明や概略を、可能な限り砕けた歌詞で歌っています。
歌詞については、最近ヒップホップばかり聴いている影響もあり、ひたすら頭韻を踏み続けています。
この歳になっても、才能がないゆえに伝わらないメッセージを、1人しこしこ六畳間で書いている様子です。
同時に、自分がダン・カイリーのいうピーターパンであることを自虐的に書いています。
これは宮沢賢治の「よだかの星」からの引用です。哀れで醜いよだかは、やがて空に飛び立ち、人々を照らす真っ赤な星になるのです。
いずれはそういう存在になりたいな、という野心をちょっとだけ入れました。
ただ、物語はそこで終わりません
よだかの星という作品は上記のところで終わっていますが、自分ならきっと不安になって、そのまま元いたところまで落っこちてきてしまうだろう、という思いで書いた歌詞です。
BUMP OF CHICKENの「ハンマーソングと痛みの塔」もわりかし同じような情景を歌っています。
よだかの星に憧れて、辛いことがないのにどこかに飛び立っても何も解決せず、孤独を知り、様々なことを知って戻ってきて、初めて理想のロックショーができるんだ、という思いで書いた歌詞です。「会場六畳間」と「開場ロックショーだ」で、バースの同じ部分で韻を踏んでいるのも、戻ってくる場所が結局一人ぼっちの六畳間であるということをより表現するためです。
最近ヒップホップばかり聴いている(二度目)のですが、SATORUというラッパーの歌詞に衝撃的な一説があります
この幼稚園児がそのまま精通を迎えたかのような歌詞、他に誰が書けるでしょうか(褒めてます)
僕もこれを見習ってそういう要素を入れたかったのですが、どうしてもインテリぶる感じが抜けなくてこうなりました
「愛情ないけど精を出して 最高 僕らピーター」は文字通り、最近流行りのクズ男を表した歌詞です。
でも誰かにとっては、(やる気のない仕事でも)愛情ないけど精を出して、さあ行こう(最高)
と、必死に人生に食らいつく様を表せるように作りました。
じゃあなぜそこまでしてある人はセックスを、ある人は仕事を頑張るかというと
結局誰もが他者の承認に飢えており、自堕落な自分を、必死に頑張りすぎる自分を止めて、ありのままを愛してくれる人を探しているんだ、というところに行きつきます。
どちらの意味にとってもサビの結論は同じになるように作りました。
あと最近ヒップホップばかり聴いているので(3度目)、普段以上にゴリゴリにオートチューンをかけています。
PA PA PA(音程が修正される音)
気持ちいい!!
クリケットエレジー
この曲からアルバムの本編が始まります。
ドラムソフトを購入して、バンドサウンドも1人で作れるようになりました。
この曲は厨二感満載の歌詞をそのままぶつけたらどうなるだろうと思って作りました。
今でも好きだと言ってくれる人が1番多い曲で嬉しい反面、やはり本音をストレートでぶつけないと伝わらないんだなーとちょっと恥ずかしくなったりもします。
これは当時好きだった女の子と映画見に行った帰りに作った歌詞な気がします。キモい。
この先の歌詞もどんどん愛が肥大化してずっとキモいのですが、それが面白くてやりたい放題やった気がします。
ただ
みたいな歌詞には、誰かを好きという気持ちより、どちらかというと歪んだ自己愛の方が逆説的に表されている気がします。
ひたすら「俺なんてどうでもいい存在だ!お前もそう思ってんだろ畜生」と歌い続ける自分大好きなやつの歌からアルバムは始まる訳です。キモい。
そんな自己愛と対比される現実の様子は2番で惜しげもなく描かれていて
と、「TOKYO NEVERLAND」でも出てきた1人しこしこ曲作る男の様子と情景が重なります。
RATというのはギターの音を歪ませるエフェクターです。椎名林檎の丸の内サディスティックの歌詞にも出てきます。
僕はこのエフェクターを幕張のトレジャーファクトリー(中古品店)で3500円という安値で入手して以来、この歌詞の部分でそのエフェクターかました音を録音しようと密かに思っていたのですが、なんとレコーディング直前に壊れちゃいました。なので音源には、代わりに情けない「キュイーン」というチョーキングの音が入ってます。
この歌詞で主人公は東京に出てきたと分かります。
君の声が遠くに…というのは当時好きだった子が普通に大学受かって遠くの街に行ったのでそれを表してます。最後までキモい。
この後にあるサビの歌詞はひたすら率直な呼びかけになっていますが、最近の流行を見ていると、こういう恋愛的な独白はトレンドなんだなぁとしみじみ思います。
歌詞の恋愛リアリティショー化現象と呼んでます。
話を戻して、じゃあこんな歪んだ自己愛を振り回すようになった背景には何があるのかいうことが、次の曲から深掘られていきます。
フレアスタック
この曲もゴリゴリのバンドサウンドです。3月に一度だけ行われた高校のOBライブでも、Wendyの新曲として披露しました。
冒頭から頭韻を踏んで始まっていて、特に一番は「な」から始まる言葉をひたすら羅列することで歌っていて気持ちいいようにしています。
前述の通り、自分は比較的恵まれて人生を過ごしてきた自負があり、それがこの歌詞の全能感にも表れています。
よだかの星然り、星というテーマはこの後もめちゃくちゃでてきます。
そんな全能感で溢れた幼少期を終え、蓋を開けると自分は何者でもないと気が付きます。
これが俗にいう思春期を悩ませる発達課題なわけですが、それを乗り越えられないと先ほど述べた「ピーターパン症候群」の状態になるわけです。
ただ、乗り越えた結果どうなるかと言ったら、結局上記のように、感受性を無くして昔泣きながら聴いた歌に何も思わなくなってしまうんじゃないか?という恐怖感を歌っています。
それでも、僕らは人生の夏休みたる思春期にさよならをしなければいけないと腹を括るのです。
Esperanzaはスペイン語で希望の意味です。少年時代の希望が…と歌うよりかっこいいので入れました。
クリケットエレジーで出てきた歪んだ自己愛は、大人になってもあの日の郷愁に悪い意味で囚われ続けているからこそ生まれたものだとこの歌詞からわかります。
最後に出てくるカシオペアは、まさに「TOKYO NEVERLAND」で出てきたよだかの星の話とつながっていて、星空を眺める少年たち(おやすみプンプン2巻的な絵を想像している)だけでなく、比喩的に誰もがよだかのような生き方を無意識に羨望している様子を表しています。
あと「誰もが見惚れた」と「果てのカシオペア」はパーフェクトライム(母音が全て一致していること)ですね。
さて、そんなよだかは死んでしまうわけですが、その先のことを少年たちは考えだします。
ニライカナイは沖縄や奄美群島を中心に広がる伝説で、海の向こうにあると信じられる理想郷・神界のことです。
よだかもそういうところに行ったんだな、羽のない自分達は羊に連れられて登っていこう、という他力本願な少年たちは、まだピーターパンになっていません(ピーターパンなら自分で飛んでいけるはずなので)。
工場の煙の歌詞の部分は、高校時代の原風景を描いています。
千葉県にあった僕らの高校は屋上に軽音楽部(保守的な高校なので、頑なにフォークソング部と呼ぶことを強いられていた)の部室があり、僕らはそこで屋上からの景色を見ながら楽器の練習をしていました。
ある日ぼんやりと遠くに見える京葉工業地域を眺めていると、煙突(フレアスタックというと後々知りました)からもくもく煙が上り、空の雲に繋がっているのが見えました。
その景色が忘れられず、歌詞に入れるに至りました。
そして、当時僕は思ったわけです。
違法薬物でもやっていたんじゃなかろうか(違います)
なぜこの歌詞が出てきたかいまだに謎ですが、憂鬱や怠惰は僕らの体を覆う膜みたいだなーみたいな感覚は今でもぼんやりとあります
あと普通に屋上がたまに煙かったこと、そのあとめっちゃ雨が降ったこと、実家が幕張(膜張り)にあったこと、hemoglobin(赤血球中にある酸素を運ぶ物質です)から赤を連想したこと、などからこの歌詞が生まれるに至りました。
なんてクリエイティブ!
オーロラ航空999
タイトルはもちろん「銀河鉄道999」から取ってます。この曲もわりかし古くからある曲です。よだかの星といい、宮沢賢治絡みのモチーフ大好きです。
僕が組んでいたPyxisというバンドに「流星セレナーデ」という曲があったので、そのアンサーソングの意味も含めて歌詞に入れています。
2行目の歌詞に関しては、昔じいちゃんとベランダから星を見ていて、めっちゃでかい星見つけた!多分北極星だ!と思ったら飛行機だった、という何気ない思い出から出てきたものです。
与太話ですが、「帰ってくるぞと勇ましく」は有名な軍歌の一説「勝ってくるぞと勇ましく」から来ていたり、この後に出てくる「忘れちまつた悲しみよ」は中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」から取っていたり、なんかわけわからない引用にハマっていた時期の曲です。
特に軍歌のサンプリングとかについては、大きな理由無くしてやるもんじゃないなーと最近反省していて、できることなら書き直そうかと思っている一節でもあります。
ちなみに、歌詞で分かる通り、主人公は荒川を越え、江東区は有明までやってきました。
コミケかな?
主人公、ゆりかもめに乗りました(意外と高いよね)
文字通りゆりかもめが湾岸線(高速道路)から少しずつ離れていく情景と、ゆりかもめ(鳥)が、夜の海沿いから少しずつ空に飛び立っていく様子を両方描いています。
後半の歌詞については、昔アイルランドに憧れがあっていろいろ調べていたときに、「アイルランドの北側では冬になるとオーロラが見えるらしい!」という記事を読んで想像で描いたものです。
その時たまたま見つけて歌詞に入れたベルファストというのは、北アイルランドにある大きな工業都市で、後々知ったのですが明るいのでオーロラはほとんど見えません。
ただ、これに関しては後日談があって、大学3年の時にめでたくアイルランドに半年間留学をすることになり、その途中にこのベルファストで開かれるロックフェスに参加するという経験をするのです。
ベルファストには自分が思い描いていた通りの大きな港と、ライトアップされた大きな建物がありました。
そしてそこに出演したOrbitalというテクノバンドがまさにその街を題材にした「Belfast」という曲を披露した時、頭上の雲の隙間を、大きな飛行機が飛んでいったのでした。
歌詞にデジャブを落とし込んだ経験は、後にも先にもこれが初めてです。
ちなみにそんな経緯もあって、この曲ではバンジョーやアコーディオン、フィドルなどを用いて、アイルランドの伝統的なダンスチューン「Humour of Tulla」が引用されています。
一緒に弾いてくれたアイリッシュ仲間たち、ありがとうございました。
world trip
インスト曲です。
数年前にガレバンで適当に打ち込んでたらなんかできたので、そのノリで入れました。
前の曲で、東京にいながら頭の中だけ別世界(アイルランドに行くというのが、ニライカナイに行くのと同義に表現されています。実際それくらい夢見ていた場所でしたし、夢のような時間を過ごしました)に飛んでいった主人公の逃避行の模様を表現できてる気がします。
ちなみに僕は寝る前にこのアルバムを聴くのが大好き(自己愛すごい)なのですが、アルバムでこの曲くらいになると大抵眠くなって寝てしまいます。
敢えて言いますが、この若干退屈なインスト曲を挟み、それでも眠れなかった人だけが次の曲にたどり着けます。
トロイメライ
眠れなかった人、ありがとうございます(ここまで読み進めてくださったあなたにも、ありがとうございます)。
この曲は多分アルバムの中では一番古くからある曲で、原型ができたのはもう10年前になります。
当時はどうしようもないデモ音源しかありませんでしたが、再三にわたる打ち込み直し、最後はバンドの先輩であるまがおさんのアレンジを借り、見事この形にて完成しました(ありがとうございます!)
歌詞の通りピアノを入れた曲になっています。
最近流行りの恋愛に酔っ払った歌詞もいいですが、個人的にはこういう人の辛さや苦悩に寄り添える歌詞を書きたいな、とずっと思っています。
大学で学んで改めて実感しましたが、様々な精神疾患に罹りやすいのは結局真面目で優しくて頑張りすぎてしまう人で、そんな人に、できる限りのお疲れを言える歌詞を書いていたいです。
さて、実はこの曲だけは主人公がピーターパンではなく、Wendyになっています。
流星群というワードがまた出てきますが、アルバムのこの辺りになる(主人公の人生が進む)と、もうみんな流星群を見たことなんて忘れてしまっています。そんな流星群をただ1人忘れずに眺めているWendyの歌です。前述の通り主人公のピーターパンは空想の世界のどっかに飛んでいる最中なので所在不明です。
大人になったWendyは1人で思います。
大人なので、この先のライフプランを考え始めています。
望郷の念に苛まれながらも、前を向いているのが彼女です。
この先の歌詞にも六畳間が出てきますが、同じ場所で同じ月を見上げても、主人公とは考えることが違ってきています。
そして2番のサビでは歌詞が少し変わります。
コスモロジーという単語は当時受験勉強でセンター試験の過去問を解いていた際に出てきて、カッコよかったのでそのまま入れました。
あまり良くないですがWikipediaから引用すると、コスモロジーは「人間をとりかこむ広がり全体」と言うことで、それに身を任せて夢を見るように人生を見つめ続けられたらいいよね、と言う歌詞です。
老子の「道」思想にも通じるものがあると思います。
僕が普通にモンハンのやりすぎで視力を悪くして、じいちゃんと見ていた星があまり見えなくなって悲しくて書いた歌詞です。
ただ、アルバムのストーリーに則ると「いつか子どもの頃見た流星群や、それに付随する思い出も、大人になって少しずつ目が曇って(悪くなって)、いつか忘れてしまうんだろうな」というWendyの悲哀を描いていて、我ながらよく書けたなーと自画自賛しています。
すごく昔の曲ながら毎回アルバムに引っ張りだしているのも、歌詞とメロディがすごく気に入っているからです。
ちなみにこのあとインスト曲としてシューマンのトロイメライのカバー(バンドメンバーのわだちが10年前に弾いてくれたのをそのまま使ってます、エモい)が入るのですが、著作権の都合上サブスクでは聴けません。そう言う意味では、アルバムの完成版が聴けるのは現状Eggsのみです。
https://eggs.mu/artist/goppimusica
ピーターパン
主人公たるピーターパンをタイトルに冠した曲。この曲だけは、唯一バンドメンバー全員でのレコーディング音源をそのまま使っています。
空想の世界で浦島太郎のように過ごして数年、東京に帰ってきて現実を見たピーターパンの独白を歌った歌詞です。
謝罪相手が誰なのかは言うまでもないですが、相手も既にピーターパンのことなんか忘れていると思うので、何の意味もないと言うのがより哀愁を誘います。
「才能ない」というワードは「TOKYO NEVERLAND」に引き継がれています。
あの曲では才能ないけど大器晩成!なんて前向きでしたが、ここではかなり後ろ向きになっています。現実と葛藤するピーターパンの様子を表す一曲です。
この後2番でもひたすら現実への葛藤と憎まれ口を叩くのですが、Cメロで少しずつ独白の方向が変わってきます。
最後には才能ないことを受け入れ、それでも歌うことを決意する様子が描かれています。
そして何より、愛する人に会えないことより、会えたことに感謝し、その後の別れと空虚を受け入れるという決意が彼を支配しています。
雨は上がったけれど、あなたはいなかった
そんな寂しさを残しながら、彼は決意を胸に、歌い残した歌を歌いに行くのです。
瞼裏のマリア
タイトルは「マグダラのマリア」の語感からつけました。
マグダラのマリアは、イエスキリストに従事した女性の名前です。聖母マリアとは別人なので注意(その割には、曲のアウトロで聖母マリアを賛美する「Hail Holy Queen」を引用してたりしますが…)
歌詞自体は、僕が前に住んでいた久我山のアパートで、風で飛ばされてきた桜の花びらが雨の後にアスファルトにへばりついてるのをそのまま描写しています。
ただ、アルバムを通して聴くと、雨上がりの東京に1人取り残されたピーターパンが、そんな情景を眺めて、昔見た星空を思い起こしている、と言う光景になります。
ここまでピーターパンを主人公にしたアルバムの話をしてきましたが、すみません。
ここは完全に僕個人の経験に基づく歌詞です!
めっちゃ言語性IQの高かった元カノにいろんな励ましの言葉をもらったことへの感謝を入れました(一応アルバムにおいては、ファムファタール幻想に囚われてWendyを聖母マリアと錯覚しているピーターパンの勝手なありがとうソングという位置付けです)
というか、ここまででお気づきでしょうが、このアルバムは僕と言う人間を主人公のピーターパンと見立ててひたすら独白を連ね続ける構成になっています。
そう思って聞き返してごらん。めっちゃキモいぞ。
ペトリコール
この曲から、時と場所は一気に変化します
好きな人に別れを告げ、1人生きていく決意をして数年、ピーターパンは神奈川県横浜市金沢区にやってきました。東京湾をぐるっと回ってきましたね。
この曲は本当に歌詞に凝りまくった曲で、解説のしがいがあります。
横浜のはずれの町で、「その日暮らし」の怠惰なピーターパンの様子を描きつつ、「かな」「金沢町」とつながることで、「ひぐらし」が「かなかな」鳴いている哀愁漂う様子も同時に表現しました。
「描いて百景」は葛飾北斎の「富嶽三十六景」と、それをモチーフにした太宰治の小説「富嶽百景」から来ています。
富嶽三十六景の一、「神奈川沖浪裏」は、神奈川県神奈川区あたりの沖から描かれた絵だと言われており、そのあたりから横浜の我が家に(おそらく京急線で)帰る主人公の様子が、その後の「もうすぐ八景(金沢八景のことです)」と言う歌詞から表されています。
「煩悩は数え切れない」と言う歌詞は、百景と八景を足すと、煩悩の数と言われる百八になることから連想した歌詞です。
夕立が工場の煙と合わさって視界がぼやけているところを表現しました。「ゆ」で頭韻踏みまくってます。
工場の煙は「フレアスタック」に、夕立は「ピーターパン」に出てきたモチーフで、それら過去の記憶が走馬灯のように混ざり合っているのも表現されています。
タイトルのペトリコールも、雨の後のあの独特の土の匂いのことなので、夕立という歌詞が入ってくるとより解像度が上がると思って入れました(この後にも「霹靂」「雷鳴」といった、夕立を連想される言葉がたくさん入ってきます)
最後の歌詞は「本当は過去へ消えたい」にして、「煩悩は数え切れない」とパーフェクトライミングにしようとしていましたが、伝わりづらいのでやめました。
「憂鬱と手を繋いだら待ちぼうけ」と言う歌詞、非常に抽象的ながら感情が浮かんできて個人的に好きな表現です。
自画自賛しますが、自分史上最高の歌詞をあげるとしたら、間違いなくこのサビだと思っています。
歌詞の各行が全て「あかさたなはまやらわ」の最初2文字から始まっている、という言葉遊びをしています。
なおかつ、夢破れた男が、それでもかつての愛のままに歌を書き続け、かつては大好きだった空(星や雲など、さらに結びつくモチーフがひたすら出てきたのもその布石です)に苛まれながら、人生に暗く落ちてくる影(さらに言えば、人生自体がこの曲の雰囲気同様斜陽に差し掛かっている)に呆然としている様子が完璧に描き切れたと思っています。
夕(ゆうべ)焼いてしまった夢、という歌詞は、昨夜(人生における少し手前で)諦めてしまった夢、という意味を持たせると同時に、「夕焼け」というキーワードを入れ込むことを目標にしました。
最後ラララ、と歌っているのも、前述の流れを考えると、ラ行につながっていくのが自然だという考えだったからです(「らりららら」にする案や、そのあとに「わーを!」という歌詞を入れる案がありましたが、さすがにダサくて本末転倒感が強いのでやめました)。
とにかくこれ以上ない歌詞を書けた曲ですが、曲的には全てを無くした男の諦念の漂うやるせないものです。
ぼくらいつまでもロックンロールさ
アルバムを作る時、本当は「ペトリコール」を最後の曲にする予定でした。
千葉からの旅も無事神奈川で終わったし、夢破れたピーターパンの哀れな姿も描けて、物語としては一区切りついたかな、と思ったのです。
ただ、前述の通り主人公のピーターパンは何を隠そう自分なので、その先に何かを見出さなければやってられず、ついにこの曲を書くに至りました。
なので、この曲が一番最後にできた、このアルバムのための曲になっています。
曲としては自分が大好きな90年代のオルタナやポストパンク、シューゲイザーの雰囲気を出そうとしています。
哀愁と言ったらやはりあの時代のロックンロールだなと思います。そのために新しく買ったジャズマスターでの演奏も収録されています。
僕は将来そこそこ東京に近い海辺の街でのんびり余生を過ごしたいという密かな夢があり、それがそのまま表出した歌詞です。
海辺の国道前のコンビニ、千葉や神奈川の南側に住んでる人にはすごく原風景だと思うのですが、どうだろう??
「かもめが高く飛んだ午後」は、12年前、僕がPyxisというバンドのために初めて作ったオリジナル曲「fool, dome, and surf」という曲からそのまま引用しています。
高校生の時に千葉の稲毛にある野外音楽堂でライブを見た時の感動や純粋な憧れを歌った曲なのですが、12年経ち、その思いには血(苦悩)が混じり、青かった空も少しずつ赤くなり、人生の日が暮れかけている、ということを表しています。
風が出てきたと言った後で思いっきりファズというエフェクターをギターにかけています。前述のシューゲイザーの様子を取り入れ、風を表現したかったからです。
夕凪が終わり、突如吹き出したその海風によって、主人公たちは人生がこのままひどい状況で終わっていくことを悟ります。
大好きなあの子もいなくなり、当時の思い出に縋り生きることを決めたものの、その道は果てしなく孤独だったのです。
後述しますが、実はこの曲に出てくる「君」はWendyではなく、もっと大きな括りの「誰か」のことを歌っています。
毎日同じように会社に行き、ミスをしては謝り倒し、くたくたで家に帰っては自己嫌悪に陥りながら、前述のように六畳間でしこしこ曲を作る限界男性の様子が表現されています。
「繰り返す日々の回転速度で転がる僕のロックンロール」は、最近の自分や仲間たちの様子をすごく上手く描写できたなあと我ながら満足しています。
「イワンのばか」という有名なロシアの民話があり、そこから着想を得た歌詞です。
最後の「言わんとすることは同じだった」は「君と同じ諦念を抱えていた」というのと同時に、どんな困難に直面してもバカなままでいたことで救われたイワンと同じように、僕らもバカなふりをして辛い現実を見ないようにしよう、という意味のダブルミーニングになっています(イワンのばかは、どちらかと言うと贅沢をせず、持ち物を分け与えることで救われる!という社会主義思想に根ざした小説なので、根本は違うのですが…)
というわけで、ピーターパンは人生の夕暮れを迎え、海辺に迫る夜と死の灰の中で、「君」と最期を迎えます。幸せを掴むことは、ついにできませんでした。
物語はここで終わりです。ここからはあとがきとして、僕自身の独白が入ります。
「君がいないと寂しいよ」は、東京喰種にて主人公カネキが、辛い戦いを経て、自身の頭の中にいる親友のヒデにようやく本音を漏らす際のセリフです。
先ほども書いた通り、ここに描いた「君」は、もはや好きな女の子のことだけを指してはいません。
人生という道を歩む中で出会った、最期を共にしたい「離れたくなかった誰か」のことです。
この歌詞で、別れた彼女も、疎遠になった友人も、(さらに言えば僕の場合は)自分の死別した家族も、全てが「君」として交差して、独白がなされるのです。
カレーライス、愛してます、なんて具体的なワードは出てきますが、そのやりとりで連想される相手はきっと人によって全く異なっていて、その先にある「僕らが子どもだった」から「できなかったこと」も、きっと人それぞれだと思います。
それでも、そんな素敵な誰かとの別れを思い返して生まれる感情は、きっと同じなのではないでしょうか。
ピーターパンになったけど、東京ネバーランドなんてアルバム名をつけたけれど、結局東京という街をネバーランドにすることはできず、ピーターパンは大人になってしまったんだと思います。
それでもできることがあるとしたら、幸せというカーテンコールに呼ばれなかった誰かを待ち続け、彼らになんらかの「ゆるし」を与えられる存在であり続けること。
ネバーランドの住民として出てくる大人になりたくない子どもたちは「ロスト・ボーイズ」なんて呼ばれています。
「Lost Boys(迷子)」なんてひどい名前をつけられていますが、彼らはただ自堕落に大人になることを拒んでいるんではなく、大人社会の病原菌に弱くて、そこから距離をとっているんじゃないかと最近思うわけです。
大人社会は厳しく、汚く、辛いものです。そこでは、純粋な人ほど心を病んでしまいます。
自分の周りを見渡す限りでも、仕事で心を病んだ人、家に来るたび二言目には死にたいとぼやく人、酒に逃げた人、社会のあり方から逃げた人…
純朴であろうとしたからこそ、転がる日々の中で摩耗して、何かを無くしてしまった彼ら。
そんな人たちに向けて僕は歌うのだ、と宣言したい。
このアルバムはそういう思いで幕を閉じます。
全く関係のない話ですが、僕は今年28歳なのですが、年齢に比べて非常に幼く見られます。この前病院に行ったら「お母さん来てるかな?」と言われました(マジです)。
言動や見た目が影響していることは想像に難くないのですが、一方で僕は心のどこかでそれを非常に誇らしく思っていたりもします。
大人社会に疲れた彼らの思い出として、子どもの時の郷愁そのままで自分があり続けられたら。
「The Catcher in the Rye」のホールデンとは違って、ライ麦畑から落ちる(大人になる)人を止める気は毛頭ありません。ただ、泥だらけで崖から這い上がって戻ってきた時に、それを迎えられるアジールとして、ライ麦畑で遊んでいた子どものままの姿であり続けたい。
「The Pixie in the Rye(ライ麦畑の妖精)」であり続けたい。
それが自分の無意識での理想なんだと思っています。
最後の「Experimental Music 01」は、10年前にバンドメンバー全員で僕の実家に泊まった時、セッションしながら即興で録音した曲です、
そんな懐かしい日々に思いを寄せながら、さらに言えばこれからもそうやって遊びながら、なんとか一緒に生きていこう。
これはそんなアルバムになっています。
あとがき
僕が子どもの頃、我が家ではよくボドゲ大会が開かれていました。その中でもわりかしルールがわかりやすいので、タカラトミーの人生ゲームがしばしば遊ばれていたのですが、あのゲームで大負けして借金を背負うと、最後に「人生最大の賭け」というギャンブルを迫られます。
そしてそのギャンブルに負けると、「開拓地(frontier)」へとプレイヤーは送られるのです。
この場所に送られるともうどうしようもないし負け確定なんだけど、それでも一緒に送られた物同士傷を舐め合いながら、最後の結果発表まで人生ゲームに参加を強いられるのです。
僕は今からでも、この開拓地をネバーランドにしたい。
人生というゲームを歩きながら、強くそう思うようになりました。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
そして、このアルバム制作に関わってくださった皆様、改めまして、ありがとうございました。
このアルバムには一部曲のギターとベースにほっくんさんとかためん、トロイメライのミキシングとアレンジにまがおさん、そして数多くの曲のミキシングにがちゃが参加してくれました。
実は彼らは全員、僕が所属した、しているバンド「Pyxis」「Wendy」の元ギタリストです(かためんは現在のギタリストです)。
狙ったわけではなく、たまたま頼める人に頼んだ結果そうなったので、不思議な縁もあるもんだと、それこそコスモロジーに弄ばれている気分になりました。
そして、この記事を書こうと思ったきっかけは、バンドの最初のギタリストであるひろが曲をベタ褒めしてくれたからです。
彼はずっとノルウェーにいて、この夏一時帰国した際の東京での日々を思い出して、このアルバムを聴いてくれているとのことです。
その一言でこのアルバムを作るまでの苦労の全てが報われました。
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